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以下、無用のことながら

まず初めに昨日の宮崎県日向灘を震源とする地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
断続的な余震や気象庁の巨大地震への注意発表に不安な日々が続くかもしれませんが、どうか一日も早く安心して暮らせる日々が戻りますことをお祈り申し上げます。

昨日の記事に書いた司馬遼太郎氏の本の出典を調べたら「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に所蔵されている「綿菓子」という随筆だった。
読み返してみるとなるほどな、と大いにうなずける内容だったので一部紹介しよう。

経済社会が、調子づき、カネがあまる。使いみちにこまって、あるモノを買う。それが騰る。投機が加熱する。

日本の場合、そのモノが土地だったことが、不幸だった。

土地は、本来、投機の対象にすべきものではない。自他がそこで暮らし、立ち、住み、耕やし、商う地面を投機の対象として賣買するのは、自他が呼吸するための空気を投機的に賣買するにちかい。
(中略)
取引という経済の一現象であるといえばそうだが、倫理としてみれば、これほど深刻なことはない。そういう目に遭わされる国民に、愛国的感情をもとめたり、社会への義務を説いたりすることは、むりなのではないか。

「綿菓子」(「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に収録)

オリジナル版は今から29年前の「東京新聞」に掲載されたものだ。

ロシア経済学者のコンドラチェフが提唱した景気循環論を持ち出さなくても「歴史は繰り返す」という言葉にあるように経済は循環する。

だから景気の山や谷が存在するのはやむを得ないものの過度な資本主義経済が進行した結果、しっぺ返しも大きくなるということか。

司馬氏が指摘したように本来は投機の対象とすべきものではないものにまで手を出した結果、社会的紐帯は失われてしまう。

なぜこのようなことを書いたのかというと僕の住んでいる俱知安町および隣のニセコ町周辺ではバブルが発生しているからだ。

スキーリゾートとして昨今、脚光をあびるニセコエリアで外国人による土地の買い占めが進行した結果、地価が高騰している。笑えない話だが僕らのような働き盛りの世代がマイホームを持とうなど夢のような話だ。すなわち構造物としての「家」は購入できても土地が高すぎて手が出せない。

だからアパートのような賃貸で暮らし続けるか町を離れるかしかないという厳しい現実が存在する。

さらに豪雪地域ということもあり高齢者などは土地を手放し、利便性の高い札幌などへ流出する。

どんどん空洞化が進むというシナリオだ。

僕は新潟からやってきて二ヶ月が過ぎたところなので、まだこの町の色には染まっていないけれど内情が分かってくるにつれ資本主義経済の弊害を思い知らされる。

北海道新幹線の延伸工事の様子が僕のアパートから見えるものの果たして開業したらこの町の経済にどのような影響を及ぼすのか、なるべく悪いことは考えたくないが色々なシナリオを想像してしまう。

今日も皆様にとって良い一日になりますように。
ちょっと重たい話になってしまったが、夏祭りでしか口にする綿菓子のように一過性のものを求めるのではなく、地元の夏祭りを毎年開催するためには何をすべきか熟考した方がいいかもな。



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