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語彙が豊かになるならば

先日、会社でハラスメント研修を受けた。
一般職、管理職を含む全社員対象の研修でパワハラ、セクハラ、マタハラなど職場で起こるであろう様々な事例について再現ドラマ?とともに解説があった。

講師の方のお話にフムフムとうなずく一方、ある言葉が引っかかった。

それは、こんな言葉だった。

私がまだ若かった頃、上司から心無い言葉やセクハラまがいの行為をされて誰にも相談できずにモヤモヤしていました。
だって、何て言ったらいいか分からなかったから。
でも今だったら「それは、○○ハラだから止めてください!」と訴えることができる。
新しい言葉ができて自分のモヤモヤを主張できるようになったから今だったら安心できます。

たしかこんなことをおっしゃっていたように思う。

自分の思いを言語化するための言葉は必要だ。
しかし果たして、それは常に望ましいことなのか。
主張する側ではなく、伝えられた側のことも考える必要はないか。

僕自身、前職でなんやかんやあった。
長くなるので書かないが今でも自分のやったことは本当に正しかったのか、と考えることがある。

恩義がある人々を傷つけてしまったのではないか。
後輩たちは僕のやったことをどう感じただろうか。

ちゃんと挨拶することもできずに前の職場を離れなければならなくなったことが今でも心残りだ。たとえ僕自身がパワハラを受けたとしても、認識や価値観の違いがあって、つまりは関係性の問題であって衝突して一度ぶっ壊れてしまってもまた再構成することはできなかったのかな、とか考える。

そう、ぶつかって互いに痛みを知ってケアしながらまた一から作り直す。
時間はかかるにしても新しい組織文化を形成するために自分が学んだことを実践していく。

僕の考えていることは頭がお花畑状態の理想主義者かな。

語彙が豊かになるならば自分の気持や感情を言葉にすることは大切かもしれない。
だけど、それを伝える他者ことにも思いを馳せてほしいと思うのだ。

今日も皆様にとって良い一日になりますように。
ことばは、異なる他者同士をつなぐ架け橋だから。


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