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苦労して微積分学ぶ必要ある?2018/2023

「苦労して微積分学ぶ必要ある?」(2018/6/14朝日新聞朝刊)を読んである数学者のエピソードを思い出した。

微分積分学の理論的な構築に貢献したコーシーは厳密すぎる数学の講義を行ったため、学生の評判はよくなかった。コーシーが教鞭をとったエコール・ポリテクニクは技術者養成を目的とした学校だったので理論よりも実践的に役に立つ内容が求められていたのだろう。

抽象的で容易には理解することができない数学は昔から敬遠されていたようだ。しかし150年以上前のコーシーの代数学的な定義は今日の微分積分学の
原型として今なお残っている。

すぐに役に立つこと、分かりやすいことがもてはやされ昨今では「コスパの悪い」ものは低評価の烙印を押されてしまうが、数学をはじめ私たちが学ぶことは得てしてコスパだけで判断できるものではない。

ちなみに以前の記事で軽く触れた、厳密な微積分の定義づけに必要なイプシロンデルタ論法はエンジニアにとって必要な考え方である。

例えば、車の設計をする際にエンジンに対し、どれくらいの誤差(εに相当)を許容するためにはピストンの動きの範囲(δに相当)をどのくらいに調整するべきか、と考えるのは自然な考え方である。

また時間をかけて考える数学は、答えの出ない問題に対する忍耐力を育むと思う。容易に理解できないものに向き合う経験こそが異質なものを理解するための一助になると僕は考える。

数学というのは非常に抽象的な学問です。
そこで考えてみると、一見異なって見える事物の間に同一性を見出すにはその外見を捨象しないかぎり不可能です。
そうだとすれば、事物を語るのに抽象的な数学の言葉を用いることなしに統一を見出すことは不可能なことです。
つまり抽象的な数学の言葉によってこそ、一見違って見える事物の間に脈絡がつけられ、同時に、多くの無関係に見える事がらを証明、証明、証明という連鎖によって基本法則から導き出し関係づけることができるのです。

朝永振一郎「物理学とは何だろうか」

参考文献
中根美知代「ε-δ論法とその形成」(共立出版)

今日も皆様にとってよい一日でありますように。

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