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国(8・10 小説)

この頃すごく気になることがある。この日本という国の外側、海に囲まれた国の向こう側には、どのような景色が広がっているのかと言うことがまず一つ。これはかつてないほど凡庸で、物憂げボーイな俺にとっては深刻な、実存に関わる疑問がまず一つ。実存って、ものすごく大事だから(なんかの本で読んだ)。それともう一つは、徐々に世界が、青色がかってきているということだ。

単純に視覚の問題ではない。確かに眼科に行って、カラーコンタクトを自分が気がつかないうちに、自分で入れたのか、付き合っている恋人に寝ている間に入れられていたのか(もしそうであったならばとても怖いのであるが)診断をしてもらいに行った。眼科には、「近眼ですね」と言われ、診断書をもらいそれを元に眼鏡をJINSで作って改めてそこら辺を眺めてみても、そういう訳ではないようだ。医者曰く色覚異常があったりする訳でもないようだ。

決定的な違和感は、都市部から始まった。Bunkamuraに難しい映画を見に行きたいなと思って、移転したことも知らなかったから渋谷を三時間彷徨っておった時に宇田川町のラブホテル街の急な坂になっているところに出てしまった時に、坂のちょうど影になっているところがブルーになっていたのだ。

俺はこういう渋谷にありがちなグラフェテイというやつだな、と勘づき、この頃のアートというやつにめざとい俺はそれをしげしげと眺めるばかりであったが、どうもあのスプレーっぽい感じではなく、そのアスファルトのカラーリングが少し変わってしまっているようだった。近づいてよーくそれを眺めてみると、粉状のものが吹き付けてあり、それが馴染んでいっていることがわかったのだった。周囲をキョロキョロとみてみると、O-eastから出てきて、まっすぐラブホテルに等速直線運動し、これからセックスを致すであろうことが宿命的に決まっているであろう二人が、「あの人は小銭を探しているのではないか」といった目つきで俺のことを見ていた。俺が今踏みつけているアスファルトがブルーにカラーリングされているというような目つきではない。俺はじっとりと冷ややかな汗を感じながら、その場をゆっくりゆっくりと離れていった。

自宅にあるWindows、ひいてはFirefoxなどを駆使しながら、この東京のどこかには渋谷のあの地点がブルーに塗られていることに気がついておる人がいるのだろうと探したけれど、どこにもそれを指摘しておる人はいなかった。当然のことながら、自分の気が変になったとしか考えることができないことは想像に難くない。

俺は非常に落ち込んだ。俺は気狂いになった。誰にどう助けを求めればよろしいのか、皆目見当もつかないのだ。俺は何が原因で、気狂いになってしまったのだろうか。俺は徐々に俺の思考に蝕まれていきながら、少しずつ、しかし着実にこの世界はパウダー状のものでブルーになっていっている。歌舞伎町の大きなゴジラも、予算がかけられなかったスペースゴジラのソフビのように雑味のあるブルーになっていた。きぬた歯科のあのポスターも、ブルーのグラデーションの映えるシックな仕上がりになっていて、なんだかアート・ブレイキーのアルバムのジャケットみたいだなと思った。

俺はしばらく家に引きこもり、自分の部屋のWindowsが変わらず、しかし当たり前のようにはなつ青白い光に対していた。この青さは、俺の感覚の中で青く見えているのか。変わっているのか、変わっていないのか、答えのない堂々巡りが睡眠過多になった俺の重たい頭を衛星のように回り続けている。世界は変わらず、俺の苦しみであるだとか悲しみであるとかを包みながら、無自覚な速さで進んでいく。俺のいるこの薄汚れた7畳一間は、青さにはまだ包まれてはいない。でも、いつここが青くなって、外側と一緒になるやも知らない。ああ、日本の外側はどうなっているのだろう。俺の想像で出来上がった日本の外では、まだブルーに染まっているわけがない。俺の大事な、大事な想像の世界なのだ。

恋人が家に訪ねてきた。俺がふさぎ込んでおるということは重々承知しているのか、淡々と一人暮らしの家を訪ねてきた母親のような仕草で、いるようでいないような、いないようで気になるような、そのくらいの距離感で接してきてくれる。そのついで、恋人が俺のことを案じてなのか、俺が物憂げボーイであることを知っているからなのか知らないが、自分の話をとくとくと始めなさった。

恋人は小学生の時にクラスで飼っていたケサラン・パサランがいたそうだ。餌をやったり、振ったりしながら、クラスの皆に愛されていたということだ。誰が捕まえてきたかどうか覚えていないけれど、コーヒーの空き瓶の中にふわふわと浮くそれを皆が全身全霊で愛でた。担任も、命の大事さを知る良い機会だと思ったのか知らないが、『ケサラン・パサラン係』というものをクラスに設けるほどであった。クラスの中でとりわけ家庭環境の悪い飯塚と、その後宗教にのめり込んで何故か公職選挙法違反で捕まることになる里見という盤石の布陣で運営され、クラスの中で一斉を風靡したそうな。
しかしながら我が恋人、「ケサラン・パサランは、生き物ではないよな」という誰にも言えぬ確信があった。恋人はところどころ冷淡な節があるために、生物以外をあまり可愛いと思うことはないもので、その疑念と、クラスの空気が歪んでゆくことに生きづらさを感じながら暮らしていた。とある日、少し朝寝坊をして慌てて教室の中に入っていると、クラスの後ろのところに円状になって生徒たちが、じっと何かを見下ろしていたという。そこには、死ぬほど家庭環境の悪い飯塚が、ケサラン・パサランに頭から噛みつかれて『死んで』いた。たくさんの愛情を一心に受けて受肉したケサラン・パサランが、飯塚に抱きつくようにして一体化していた。少しした後に、これだと思ったという例えによると、エイリアンシリーズに出てくるフェイスハガーが一番近いものだと、我が恋人は言う。
皆が悲鳴をあげたりせず、担任ですら警察を呼ばなかったのは、そのケサラン・パサランが、本当に幸せそうに、抱きしめるように飯塚にしがみついていたから、ということであったらしい。我が恋人は、それが薄気味悪いどころか、なかなかトラウマティックに思ったそうな。その後から、我が恋人はそのトラウマに面前としながら年月を経る折に、『空気はすべて嘘であり、直視することのみで自分を自分たらしめる』との人生訓を得たようだった。

恋人の話が終わり、しばらくそのことについて議論を交わしたのち、恋人を激しく抱いた。俺は、外に出ることを決めた。

7年前に東京臨海部で甚大な爆発事故が起きた。爆破域の中での生存者はただ一人で、当然重要参考人になった彼は、警察にさまざまたらい回しにされた後、一審で死刑、高裁で無罪、最高裁では禁錮5年という異例の蛇行審判を受けた、日本の司法制度では捌ききれないその当人は、今ではアッコにおまかせ!などに出演し、当時のことについて荒唐無稽に語っている。それよりも重要なのは、その後その爆心地付近は、7年前と同様に開拓され、何事もなかったかのようにそこに高いビルが聳え立っているということだ。
そこに未だ成仏できず彷徨っているであろう幽霊など信じない強さを持ちながら、風評・印象によって導かれた能無しの成金どもが買い漁っていた。それゆえ、そこに何が起きたと言うことも、事故当日の、祝日となった『港区爆発の日』以外思い出されることは、こと臨海部においては、無い。

その跡地の、なんと嘘くさく、居心地の良さといったらない。俺が浜松町で降り立ち、多少街が青みがかっていても平常心でいることができるのはその嘘臭さ、怪しさ、胡散臭さに強烈に居心地の良さを覚えるからに他ならない。駅を外に出て飛び込んでくる、ぴっちりと整備されたアスファルトを踏み締め、ニョキニョキと集合写真のように顔をのぞかせているタワーマンション、真新しく反射剤が照り返しているガードレールなど、何もかもが不合理な了解のもとに成り立っている。

恋人のお陰ながら外に出ることができたこと、そして外側への関心の湧いてくることを自分の中に確かめながら、自分の興味・関心が軋む大きな扉を開けるように少しずつ満たされていくことを感じていた。人の気配がないながら、車道側を見ると信じられない速さの、趣味の悪いブルーのアルファロメオが走り去る。あれが自分の狂いであるかどうか、我が恋人の言う通り、直視以外にないのだ。

浜松町から汐留を抜けて築地の方へ歩みを進め、月島の方へ向かう。大きくだだっ広い道には人通りが少なく、いるとしてもランナー、ネズミくらい小さい犬を散歩させておる成金などばかりである。しかしながら、その長い長い散歩の節々において、キーボックスが点在していることに気がついた。これは、ニュースで見たことがある、違法民泊を運営している外国人が、それを利用する外国人に向けて鍵を入れているものなのだという。たまらずニコニコしてしまう俺。嬉しい。これこそ、虚飾に塗れた東京の本相よ、と短歌でも読んでやりたい、ルンルンとした気分だ。

目で追うたびにそれが嬉しく、これまでに72個、数を数えていたのだ。すると、目を疑うだに、ここ月島の少し外れたあたり、俺の目の先には実際にそのキーボックスの前でしゃがんでおる人がいるでは、ないか。俺は、この開かれた俺の心でもって、警察でも私人逮捕系YouTuberでもない、決して怪しくない足取りで近づいていったのだ。しかし、奇妙にその人物は、現場検証のように手袋をしながらハケで何かをキーボックスに塗りつけていた。

俺は我慢が限界で、「何を、されているんですか」とカチコチになりながら言葉が先に出てしまっていた。何やら嫌な予感がしたし、実に話しかけない方がいいんじゃないか、と思う瞬間と同時に言葉が出てしまった故に、しまった、と思った。

キーボックスに塗っていた鑑識然とした男は、振り向くと以外に若かった。しかし、芯の濁った大きくまんまるとした目をしていた。ギョロリとした目はしばらく俺のことをじっと見つめたが、どこでそう判断したのか、すっくと立ち上がって、こう切り返すのであった。

「ここ一体のキーボックスに、毒を、塗っています。」


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