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【PODCAST書き起こし】名人:三遊亭圓朝について語ってみた(全6回)その3

【PODCAST書き起こし】名人:三遊亭圓朝について語ってみた(全6回)その3

(「いらすとや」さんの画像使用:https://www.irasutoya.com/)

【三浦】この絵の話で言うと、永井啓夫さんでしたっけ? 圓朝の伝記書いた。江戸末期の有名な浮世絵の歌川国芳に弟子入りしていたことあるらしいですね。2、3年。やっぱり噺家になりたいというのが断ち難しで噺家になるんですけど、国芳のところに弟子入りして描くって結構なことですよね。誰かの紹介があったんでしょうけど。画才もかなりあって。

【和田】あったんでしょう。そういう絵の作品が素晴らしかったのかもしれないけど、そういうセンスが例えば『乳房榎』の絵が完成して、あるいは完成してないのが心に残っちゃうとか。

【三浦】主題につながっていくんですね。

【和田】そういうところに非常に生かされてるんじゃないかなっていう気はするんですよね。

【三浦】最初のところしか読んでないんですけど、永井さんの本によると圓朝は道具立てをして当時高座に上がっていた。つまり後ろに絵を描いたりとか、話をするのに道具を自分で作ったり描いたりして上がってたっていう。道具立ての高座ということですか? 今誰もやらないですよね。

【和田】今ね、それが林家正雀師匠っていう人が、要するに林家彦六さん。

【三浦】正蔵彦六。

【和田】その人が道具入り芝居噺っていうのを唯一継いでたんです。

【三浦】本当ですか。

【和田】今彦六さんからさらに継いで正雀さんという人がたまにやります。僕も上演手伝ったことがあって。ただそれ1回やる場合に、道具が置いてあるところから軽トラックで運搬してたててみたいな、やっぱり芝居の大道具みたいなふうにものが必要なので。簡単なものなんですけどね。

【三浦】お金かかりますし人出もいるし。

【和田】だからなかなかしょっちゅうできないんですけど、それはあることはあります。

【三浦】それでは、和田さんはお手伝いされていたこともあるということは実際ご覧にもなったんですか?

【和田】もちろんです。

【三浦】それは何をやったんですか?

【和田】何回もありますけど、それも例えば『水門前』といってですね、さっき言った『累ヶ淵』のお久と……。この道具入り芝居噺っていうのは話の9割くらいは普通にやるんですよ。最後だけ歌舞伎っぽくなるんですけど、最後の1割くらいがね。

【三浦】その時に幕が上がったりするということですか?

【和田】振り落としですね。逆ですね。黒幕だったのがチョンと落ちて見えるようになるっていうことなんですけど。お久を間違って殺してしまって、土手の甚蔵が窯を拾うっていう場面を座布団の上じゃなくて動いたりしてやるんですよ。ちょっとした大道具みたいなのがあって水門もあって、門を上げて出てきてせりふも七五調になるんですよ。筋一緒なんですけど。

【三浦】せりふになるんですね。

【和田】そうなんです。普通例えば圓生さんとかがやると「こんなところに窯があるじゃないか。これは人殺しの道具に違いない」みたいに言ってるとするでしょ? 彦六さんのやり方だと「この刻印は山に三。男を磨く三蔵に、あだはつけにゃ腹はいえねえ。これはいいものが。チョン、手にはいったなあ」ていうふうになるんですよ。歌舞伎っぽくなるんですよ。面白いですよ。ただ圓朝は、たぶん永井さんの本に書いてあると思いますけど、それを若き日にやってました。道具入り芝居噺というのを。圓朝以外の人もやってたんですけれども。

【三浦】割とそれは当時の寄席で普通にやられていたということなんですかね?

【和田】でもやっぱり圓朝が代表選手だったとは思います。そのときに圓朝は明治維新後にその道具入り芝居噺をやめるんですよ。やめて道具も人にあげちゃう。つまり、たまにやるとかいうレベルじゃなくて、本当にやめちゃったんです。道具もいらんて言って。

【三浦】それで素噺だけでやるようになったんですね。

【和田】そうです。そこからあとは、私は素噺1本でやりますって言って、扇1本でやりますって言って、そっちにものすごい明確にシフトしたんですよ。僕は、それはすごく必然だったと思っていて、それはなぜかというと、結局明治20年代に入って日本に初めて散文というものができるわけですよ。なんとかでそうろう、なんとかでござるっていうんじゃなくて、なんとかです、汽車が走ってきて僕はこう感じたとか。要するに今の文章ですね。

【三浦】候文でなく今の普通の文章。

【和田】それが言文一致運動っていうんだけれども、そこで出てきたのが例えばちょっと時代はあとですけど正岡子規とかさ、そういう人じゃないですか。漱石ももちろんそうですし、もうちょっと上の世代に二葉亭四迷とかがいて、圓朝はやっぱりすごい人だから、これからは散文のほうにいくんだと思ったはずなんですよ。

【三浦】じゃあ先読みをやっぱりしていたんですね。

【和田】そうです。その道具入りの芝居噺っていうのはスペクタクルもさることながら、歌舞伎っぽいことをよしとしている世界観なわけですよ。だから七五調とか、抑揚でやるさっき言ったせりふみたいなのとか、型でやるっていうことかな? そうじゃなくて扇1本で「なんとかでございます。金が入ってなんとかで、俺も酒を飲んだらうまかろうな」とか、普通の口調でやるっていうほうに、これからの時代はそっちだよっていう判断があったと思う。そうじゃないと道具を人にあげちゃうとか、そこまですっぱりやめないと思うんですよ。

【三浦】このやり方はきっとこれからは違うから、これは弟子にやったか分かりませんけど、君たちやりなさいと。

【和田】そうです。やりたい人がやればいいということで、だからその予言通りそのあとも三遊亭一朝さんとか彦六さんとかいますけど基本的に道具入り芝居噺っていうのはやられなくなったわけですよ。まさに散文の時代になったんです。

【三浦】素噺でどんどん地の話とせりふのやり取りでどんどん人を引っ張ってくる、引きずり込んでいくっていうやり方に変わっていったっていうことですよね。要は見た目のインパクトはなくしたっていうことですね。

【和田】そうです。だから言葉のみ。ちなみに圓朝を学者さん的に研究している人のお話だと、圓朝の演目というのは特に今言った『累』もそうですし、他の出し物に関しても、初期の道具入りとか七五調でやっていた演出と、後に素でやった演出があるので、AバージョンBバージョンになっているらしいです。今、岩波文庫とかになっているのは素のほうなんです。七五調とかないでしょ?

【三浦】七五調全くないですものね。芝居がかったことないですものね。今、読み物になってますものね。これ結局90いくつに分けてありますけど、たぶんこれは90何回やったっていうことなんですよねきっと。

【和田】連載のときの区切り。90何席はやってない。15日くらいで一応第1話から大詰めまでやったらしいですけれども。

【三浦】閑話休題みたいな感じの枕的な話が途中入りますよね。

【和田】ありますよね。よく言われるのは、『牡丹灯籠』の速記が発売されて、二葉亭四迷がこれからの時代の、さっき言ったなんとかでそうろうとか、承ってそうろうとかそういうのじゃないのを書きたいなと思って、坪内逍遥博士に相談したわけですよ。坪内逍遥はめちゃくちゃインテリじゃないですか。その趣旨は分かると。だったら圓朝っていう人の速記本があるから、『牡丹灯籠』があるから、あれ知ってるだろって。あれ参考にして書いてみたらって言って書いたのが『浮雲』か。

【三浦】よく二葉亭四迷と圓朝のつながりの話って語られますものね。それが『浮雲』の話か。

【和田】それによって、コロンブスの卵みたいな感じで、こういうふうに書けばいいのかっていうふうになって。

【三浦】それは坪内逍遥先生が言ったっていうことなんですね。

【和田】そうです。坪内逍遥がアドバイスして、もうちょっとあとの世代の漱石とか子規とかは。

【三浦】それを大成したというか開花させたという。

【和田】そうです。こういうふうにこれからは散文で行くぞって言って。

【三浦】坪内逍遥先生っていうのは時代的には圓朝とはどういう感じ?

【和田】重なってますよ。

【三浦】じゃあ実際に圓朝の高座を聞いたり見たりしたことはあるんでしょうね。

【和田】坪内逍遥はあるでしょうね。あと有名な人でいうと岡本綺堂。綺堂は聞いてます。記録にも書いてるし。続き物が聞きたくて通って、行き帰りが怖かったとかって書いてます。ついでに言うと、圓生、正蔵、志ん生さんとかっていうのは、圓朝を聞いてうまいなっていう世代じゃないんです。ちょっとずれてる。ちょっとあとなんです。

【三浦】圓生さんて確か圓朝さんが亡くなった年に生まれてますものね。1900年。

【和田】文楽さんとか志ん生さんは最後の10年くらい重なってるんですけど。

【三浦】本当ですか? 1890年代。

【和田】その頃の生まれなので。

【三浦】でもその頃はもう圓朝は高座に上がってなかった。

【和田】上がってない。彼らも別に芸人の子どもじゃないから聞いてないんですよ。だから自分が生まれた頃にそういう人がいたらしいなくらいの感じで、直には見てない。だから志ん生さんとかは、圓喬っているんですよね。圓朝の弟子がいる。

【三浦】橘家圓喬。

【和田】それをものすごく崇拝していて。

【三浦】名人だっていう話ですよね。

【和田】圓朝門下の中でも指折りの名人だったと言われているんだけど、あの師匠はすごかったというふうに、志ん生さんは、存命中は圓喬のこと自分の師匠だって言ってましたからね。本当は師匠じゃないんですけど。

【三浦】三遊亭ですものね。

【和田】なんだけど、その辺の人を聞いて圓朝はその向こうにいるっていうちょっと幻の人なんですよね。今と違って音がないから。

【三浦】記憶でしか話されないですものね。

【和田】あと圓喬とかそういうのを、圓右とか小圓朝とかを聞いてその師匠なんだからよっぽどすごいんだろうなみたいな感じです。

【三浦】結構たくさん弟子育ててるんですよね。圓朝は。

【和田】圓朝は40人くらいいたらしいです。

【三浦】それはすごいな。

【和田】だから今言った圓右とか、圓喬とか小圓朝とか、あと4代目圓生か。その辺の人がいて、とにかく今の令和の三遊亭ってつく人はみんなさかのぼっていけば圓朝になるらしいです。だから圓朝は弟子に恵まれて、それで名が残っている部分もありますね。一部ね。そこまで巨大なファミリーになったから。

【三浦】さっき出た『累』を参考にして『累ヶ淵後日の怪談』。あれを書くきっかけになったのは何かっていうのは、本を読んでたら。圓朝は真打になってとりを取るときにすけでお願いした自分の師匠、2代目三遊亭圓生が、圓朝はそのときは道具立ての話なので、これを持って来てやるっていうことを知ってる師匠が、全部圓朝がやるはずだったネタを毎日毎日やって、さすがに同じ話するわけにはいかないから、無理やり持ってきた道具で別の話をしてたっていう、そういう師匠の意地悪があったんですよね。

【和田】そう言われてますね。

【三浦】書いてありましたね。

【和田】これは割と誰の本を読んでも書いてあるので、そうだったのかなと思うんですけどね。

【三浦】でも圓朝のえらいところはもちろんそのとき喧嘩はするんですけど、最後やっぱり高座にも上がれなくなって貧乏生活を送る師匠をちゃんと世話して看取るんですよね。

【和田】そうですね。後には圓生師匠がある意味で乱暴なやり方で育ててくれたなっていう。

【三浦】そう思い込むんですよね。やっぱり芸人を育てるには荒っぽい苦難をくぐらせる、通らせるっていう意味でそうやって私を育ててくれたんだと解釈してってことですよね。仏門の修行と近いものがあるんですかね? もしかしたらそれは義理のお兄さんが僧侶だったということもあるのかもしれないですね。

【和田】そうですね。宗教とか、鉄舟は禅ですよね。そっちに割と接近して、そこらへんはどういう絡みが……。

【三浦】お兄さんというのは、お母さんは一緒だけどお父さんが違って異父兄ということになるんですけど僧侶で。どうも圓朝の実の父親圓太郎が圓朝を噺家にすることをすごく嫌がって、お母さんとお兄さんはそう思ってた。圓太郎がどこか出奔していなくなっちゃうと3人で寺に住んでたりしたこともあったりして、圓朝自身は禅寺のお堂の中でちゃんと落語の稽古とかしてたっていう。だから仏門との親和性はかなりありそうな感じですよね。しっくりと入ってくる。

【和田】圓朝で面白いのは鉄舟に、これは仏門というより禅宗であり、山岡鉄舟は明治維新にも非常に関係した人ですけれども、そこに非常に接近して私の師匠みたいな。芸人ではないけど師匠みたいなふうに教えを乞うわけじゃないですか。

【三浦】鉄舟と圓朝の関係をお話しいただいても。

【和田】そうですね。禅の教えを彼に教えた人であり、プラスもう一つ言ってしまうと、当時明治10年代だと思うんだけど、その当時の有力者に鉄舟がすごくつないでくれたらしいんですよ。鉄舟っていうのは肩書なんて言ったらいいんですかね? 禅の人でもあり、政治に関係した人物でもあるから。

【三浦】鉄舟ってどんな人なんですか?

【和田】勝海舟とかが無血開城とかしたときに、勝海舟とも当然関係があって、そこの間に入って、いわゆる西郷隆盛が乗り込んできて江戸どうするんだって言って、勝海舟がもう幕府やめますみたいなこというわけじゃないですか。江戸最後の日みたいなのあるじゃないですか。そのときに鉄舟が確かそのセッティングというか……。すみません。曖昧なんですけど。

【山下】いや、書いてあります。

【和田】そういうことですよね。

【山下】徳川慶喜の警護に当たり、西郷隆盛を駿府に訪ね、勝海舟との会談をあっせんするなど、徳川救済と江戸開城のために尽力した。

【三浦】それが山岡鉄舟。

【山下】山岡鉄舟はそもそも旗本の子として江戸に生まれたということが書かれています。

【和田】そういう、ある種政治家であり、禅の宗教者でもあるということなんだと思うんだけれども。10年くらいにすごくいろんなこと教えてもらって、鉄舟は当然インテリでしょうから、いろんな人に、政治家の井上馨とかにもつないでもらって、11年間の師弟関係があったそうなんです。鉄舟の下で。だから鉄舟のお墓も全生庵にあるでしょ?

【三浦】鉄舟のお墓は圓朝のお墓より大きいですね。ただ、全生庵は鉄舟の発願によって建立されたんじゃないですかね。

【和田】そういうことです。

【三浦】だからそもそも鉄舟の寺ということですよね。

【和田】ところが僕、矢野誠一先生が書いてて面白いなと思うのは、鉄舟が没後、圓朝のほうが年下だから長生きするんだけど、鉄舟が亡くなったら禅寺とかほとんど行かなくなるんですって。圓朝が。それでむしろ身延山の法華のほうに結構熱心に行くようになったりして、圓朝は当然『鰍沢』っていう作品があるから、法華宗の話なので、あれはリアル圓朝作かどうかはいろんな議論があるんだけど、でも圓朝がやってた代表作ではあるわけですよ。てなことがあって、それは矢野誠一さんとかさっき言った林家正雀師匠とかと話していると、特に正雀師匠は自分が芸人だから、芸人の生理としてみると、鉄舟に近づいたのは「ヨイショです」って言ってたの。これは面白い見方だなと思います。

【三浦】ちゃんとヨイショもできるんですね。

【和田】圓朝っていったって芸人だからそうだと思うって。たぶんメリットがあった。教えもあるけど人脈とかね。

【三浦】それは魅力的ですよね。いろいろお呼ばれしたらいいですものね。

【和田】めちゃくちゃそうですよ。特に井上馨とは親しくして、井上馨亭に呼ばれるとかね。当時は今と違うから、噺家がそういうところに食い込むっていうのはまずないわけですよ。当時、談洲楼燕枝がいますといっても、2代目圓生がいますといってもそこの明治の元老のところに訪ねて行っちゃうとかお呼ばれするとかまずないわけで、そこに計算もあり実現させたっていうことだよね。

【三浦】結構そういう意味ではそういう才覚があったっていう。

【和田】政治性が当然あったんだと思います。鉄舟の教えで無舌っていって、舌を動かさずに落語を語ることを悟りましたって。

【三浦】それは鉄舟の言葉なんですか? 無舌って。

【和田】そのやり取りの中で禅を学んで。

【三浦】確か圓朝の墓に無舌って書いてあるんですよね。

【和田】そうです。でもこの話ってめちゃくちゃ分からない話じゃないですか。分からないっていうか抽象論ですよね。舌を動かさずに落語を語ることを悟りましたって言われても。

【山下】なんかでも禅の世界に似てますよね。禅問答ってそうじゃないですか。そうでもあり、そうでもなしっていう。そこは鉄舟さんと圓朝さんが禅の思想の中でつながっていて、そういう言葉を交わされていったんじゃないでしょうかね?

【和田】ただ僕は正雀さんの解釈でいうと、そのときに舌を動かさずに語るのを悟りましたっていうのは僕は圓朝が合わせに言っているような気がするんですよ。先生の教えで、とか言って合わせに言ってるかなっていう気はするんです。

【三浦】そう言っていることがもう無舌じゃないような気もしますよね。合わせに言っていることが。

【山下】おやじ殺しの人なんですね。

【三浦】だから、もしかしたら自分の師匠だった2代目圓朝のことを大切にしていたのもそういう部分もあるのかもしれないですね。先達に対する尊敬・敬意もあるけど、とにかくやっぱりヨイショするという根っから身についた。

【山下】自然とかどうかは分かりませんけど。だからそれがいろんな偉い人と関わるようになっていって、弟子の指導もそれができてきたし、だんだん立派な人にどんどんなっていったっていうことですよね。僕も今回のを読んでいてすごく思ったんですよね。それは芸を通じていろんな人と知り合ってみんなを楽しくさせてくれることによって、昔いじめられた圓生師匠とかをもう1回ちゃんと面倒見ようっていうことをして、最終的にそれが自分に戻ってきているっていうような? もしかしたらそれが法華の思想のほうに近づいていったのかもしれないなっていう気がちょっとしました。

【和田】あとね、前ちょっと引用したんですけど、穂積歌子っていう、当時の貴族院の誰かの奥さんがいて、その人が明治時代の婦人なんですけれども、要するに当時の華族様みたいなのの奥さんなんだけど、すごく日記をつけているんですよ。その『穂積歌子日記』っていうのが刊行されているのね。みすず書房だったような。その本を読んでたら僕すごく面白かったのが、それって当時の暮らしのやつだから主題は落語関係ないんですよ。たまたまそこに出てくるのが明治20何年くらいに、その人は牛込だから今の市谷の辺りに住んでるんだけど、圓朝が夕方家を訪ねてきたと。「圓朝さん」って言ったら「そこの藁店っていう寄席に今日出ますので、ご挨拶に」って言ってちょっとした手土産みたいなのを持って来て、ご挨拶して帰っていったってたか子さん書いてるわけ。

【三浦】やっぱりそつがないですね。

【和田】それってものすごく芸人っぽいふるまいなんですよ。「ちょっと近くまで来たもんで」とか言ってカステラ持って訪ねてきたりとか。圓朝ってそんなことするんだっていう、そんなことするんだっていうか芸人として見たらめちゃくちゃ普通なんだけど、やっぱりこういう側面てあるんだなって。

【三浦】芸人としての側面ですよね。

【山下】ちょっと調べたら穂積歌子さんは渋沢栄一さんがお父さんなんです。渋沢栄一と圓朝さんは関りがあったというふうに聞いていたので。

【三浦】いいですね。ちょっとそこまで来たので土産持ってきましたって。

【和田】ていうのが書いてあって、それはめっちゃナチュラルに書いてあるんだけど、歌子さんは。

【三浦】そのまま受け取っているわけですものね。そんな芸人のそつのなさとかそういうことではなくて。

【和田】だから僕らが見ると、ちょっと巨大に見すぎちゃっている部分もあるのかなっていう気もするんですよ。

【三浦】偉大な人としてね。

【和田】あとから偉大にしちゃっている部分もあって。あと面白いのは、倉田喜弘さんていう明治時代の世相を研究しているような人がいるんですけど、明治時代の新聞とかいろんな刊行物を調べていたら、圓朝が宮様のところに行って落語をやったっていう錦絵とか記事があるんだって。ところがそれは、事実はないんです。事実はそんなことないんだけど、そういう伝説が作られちゃってそれをもとに絵とかまで書かれちゃってる。

【三浦】それは誰が何の目的でそんなデマを流したんですか?

【和田】単なる読み物としての面白さでしょうね。

【三浦】本人がそんなこと言ったわけじゃないですよね。

【和田】言ったわけじゃないと思います。そういうようなのがあって、当時ってマスコミといえども今と全然違うからそういうのが独り歩きしちゃって、でもそれが説得力持つくらいに例えば渋沢栄一家に行くとか井上馨のところに行くとか、それこそ悪名高い山縣有朋のところに行ったりとかしているわけですよ。出入りしているわけ。そのときに鉄舟がかなり仲介してくれたらしいですけれども。てなことがあって、さっきの歌子さんのあれもそうだけど、華族さんとかその辺の家に呼ばれてなんかやったりくらいのレベルは本当にあったらしい。
それから、よく落語家がこれ談志さんとかもよくしてたんだけど、『文七元結』っていう落語やりますよね。そのときに枕でみんな言うのは、圓朝さんが明治になったときに、当時の元老、だから明治維新をした人たち。山縣有朋、井上馨、その他にお座敷とかに呼ばれて「圓朝、おまえらがよく江戸っ子というけれども、どういうものかよく分からん。おまえは話をするんだろうから江戸っ子というものがどういうものか教えてくれ」。

【三浦】彼らは江戸っ子じゃないですからね。

【和田】「では申し上げます」と言って始めたのが『文七元結』。

【三浦】そうなんですか。それ言われてすぐできる?

【和田】いやいや、作ったっていう意味じゃないですよ。江戸っ子っていうものはどういうものなんじゃって言われたときにこういうお話がございますと言って『文七元結』披露したっていってなるほどと思うでしょ。ところがこれも都市伝説らしいんですよ。でもこの話めちゃくちゃよくできてるから、事実じゃないかもしれないんだけど成立している話なんですよ。

【三浦】そうですね。むしろ成立していてほしいですね。事実であってほしいですね。成立してるから。

【和田】たぶんそのくらいの会話をするシチュエーションは実際あったはずなので、それは他の人だとないんですよ。そういうシチュエーション自体がないから、他の人だとたぶん成立しないんですよ。そこが面白い。

【三浦】『文七元結』は誰の作なんですか?

【和田】『文七元結』は圓朝作っていう説と、元々ああいう話があって圓朝がすごく演出も磨いて台本を整理して完成させたっていう説があります。

【三浦】ああいう話は普通にありそうですものね。

【和田】ありそう。だから僕は後者のほうかなと思いますけど。圓朝によって磨かれて、今日版になったっていうことかなと思いますね。それとやっぱり、これは岡本綺堂が書いているんだけど、圓朝と同時期に活躍していた談洲楼燕枝っていう人がいて、圓朝と確か同じ年に亡くなったのかな? 綺堂は燕枝も好きだったんだけど談洲楼燕枝っていうのは侠客ものとか人殺しとか悪事を働くとか、御用金を運んじゃうとかそういうのがものすごく面白かったんですって。

【三浦】ちょっと講談っぽいといえば講談っぽいですね。

【和田】それで『島鵆沖白浪(しまちどりおきつしらなみ)』やったりとか。

【三浦】それ講談ですものね。

【和田】講談ていうか、一応燕枝がやってたんですけどね。

【三浦】それ落語か。最近、柳家三三がやってましたものね。

【和田】それを見ると、やっぱり燕枝ってすごかったと思うし、燕枝のこと知りたいなと思うんだけど、燕枝ってやっぱり元老とかと付き合うかっていうとそれは想像しにくいんですよ。それはどっちかというと歌舞伎とか江戸の乗りの名人だったんだろうなと思う。圓朝は良くも悪くも利口者。そっちに合わせていける。

【三浦】目端がちゃんと利いていたということですね。

【和田】だから政治的にも利くし、さっき言ったみたいにこれからの時代は散文なんだというふうにパンとそっちに行けるとかそういう頭の良さも当然あるしっていう人だったんじゃないかなと思うんですよね。

【三浦】そういう元老たちの前でできるっていう圓朝は自分をそこまで磨き上げるっていう努力は並大抵ではないでしょうね。自然にできたんですかね? 人間としてとてもよくできた人ですものね。あまり欠点がなさそうな人じゃないですか。圓朝って。


 テキスト起こし@ブラインドライターズ
 (http://blindwriters.co.jp/)

担当:越智 美月
ご依頼ありがとうございました。
圓朝さんがとても偉大な人だったことがよく伝わってきました。『穂積歌子日記』のエピソードもそうですが、このように分かりやすく面白く解説してくださるコーナーがあると、落語に興味を持つ人が増えていくのではないかなと思います。
これからも楽しみにしています。ありがとうございました。

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