考え事#22 自分の捉え方
大学を卒業してから学校現場で10年間、色々試行錯誤してきた。今の社会と学校のギャップを感じながら、今後の学校は?授業は?どうあるべきか?というところを特にコロナ禍で体験しながら考え続けて、反転授業にたどり着いた。反転授業は3年実施してみて、狭義の反転授業が「一斉最適化」された授業であることを実感している。そして、狭義の反転授業はまた「個別最適な学び」の入り口の1つであることも実感している。
そんな僕が考える、今後の社会を形成していく子供たちを教える僕ら教員(もっと広く、大人でもいいかもしれない)が培うべき最も大事な力として、僕は自己認知能力を挙げたい。今日はこの話を自分なりに深めてみる。
個別最適化=1on1でのコミュニケーション
一斉授業では「集団」を意識した授業デザインが当たり前であるように、個別最適化を目指す授業では、「個人」を意識した授業デザインが当たり前になる。もう少し簡潔にいえば次のようになる。
一斉授業:1対多でのコミュニケーション能力が大事
個別最適化:1対1でのコミュニケーション能力が大事
まあ、当たり前のことを言っているのだけれど、ここに大きな落とし穴がある。僕ら人間は主観で生きているから、主観的な自分の経験をもとに、自分の中に入って相手とコミュニケーションを取るのが基本になる。
人が"主観"だけで他者とコミュニケーションを取るとどうなるか?
皆さんお分かりの通り、主観で気の合う人とは仲良しになり、主観で気の合わない人とは多くの場合仲良しにならない。
では、
教師が"主観"だけで生徒とコミュニケーションを取るとどうなるか?
その教師の主観に無条件で同意・共感できる生徒は成長しやすい環境を得ることができて、そうでない生徒にとっては成長しやすい環境が生じにくい。
みたいなことが起こる。教師も人である以上、これが全く生じない環境を作ることは難しい面があるが、この割合を0に近付ける努力はするに越したことはない。
権威をもって生徒集団をまとめ1つの方向に導くような、旧来の一斉授業の教師像であれば、自分の個性を"主観的に活用"して、経験則に基づいて授業なり教育活動なりをデザインしていてもある程度、何とかなる。しかし、これが個別最適化を目指すとなると、教師は自分の個性を"客観的に活用"する必要が出てくるように思う。この、自分の個性を客観的に活用するために必要なのが、自己認知能力だ。
入口としてのメタ認知
メタ認知という言葉が世に広く浸透して結構時間も経っているので、メタ認知が何なのかについては深くは述べないが、いわゆる「自分自身を客観的に認知する」ことだ。自己認知能力を高めようと思った場合、まず思い当たるキーワードがメタ認知なのではないだろうか。
もう一人の自分を上空に浮かべて、そこから状況を俯瞰・鳥瞰してみる
とか、そういったイメージがメタ認知だと認識している(ちょっとややこしい・・・)。
メタ認知能力を高めることによって、人に何かを教えるという目的の達成率は多きく向上する。自分の教え方は今の授業で良かったのか?ここの説明はわかりやすかったか?など、授業研究においても教師のメタ認知能力が成長するような協議が実施されることが多いだろう。
メタ認知自体を否定する気持ちは一切ないが、メタ認知にも限界があるということを最近実感している。メタ認知は万能ではないのではないか?という問いをここで共有しておきたい。
主観的客観視
さて、もう少し深めておきたい。日本語的にメタ認知を表現すると、主観的客観視、ということになる。
自分が自分のことを外から見た時に何を感じるか?
というのがメタ認知の基本的な構造だ。だから、あくまでも認知する主体は"自分"である。よって、メタ認知を極めたとしてもそれは自分が自分を見る視点に過ぎない。個別最適化を目指していて実際に必要になるのは、相手が自分を見る視点だ。
なぜそう感じるのか。
普段僕は、なるべく威圧的に見られないように、なるべく寄り添っていると感じてもらえるように生徒と接するようにしている。これは一斉授業をやっていた頃もそうではあったが、結局形式がそれを妨げていたと今は思う。黒板の前に立って説明する人⇔机に座って聞く人という構図が一斉授業だから、教室内でどうしても教師の役割は「生徒とは別な立ち位置」となる。いや、立場的には別な立ち位置ではあるんだけれども、、、
この、別な立ち位置の感覚を持ったまま個別最適化に臨もうとするとおかしなことになる。自分の感覚と違う感覚を持つ生徒とコミュニケーションが上手に取れないことに気付く、とでも言えばいいだろうか。
個別最適な学びを支援するには、この視点は外さなければいけない。そこで必要な視点は「教師と生徒は、肩書は違うかもしれないけれど、結局同じ教室で同じ場を形成する1対1の人間でしかない。」という当たり前の視点だ。
さて、そんな視点を持ちながら、自分をメタ認知しながら、なるべく威圧的に見られないように万策を尽くして生徒とコミュニケーションを取ることに執心してきた僕なのだが、最終的に一定数、「先生恐い」という生徒が出現するという状況に出会うことになる。
自分なりに万策を尽くしてきた故、これは前提としてきた仮説に誤りがあったのではないか?ということに思い至る。
僕の仮説を修正するための問い、これが先に紹介した問いである。
メタ認知は万能ではないのではないか?
客観的客観視
タイトルが落ちになっている感も満載だが、要は個別最適化を目指すときに意識すべきことというのは、まさにこういうことになる。
相手から見て自分はどう見えるのか?
メタ認知の語源はギリシャ語のmetaで、これは「高次の」とかそういう意味を内包する語句だ。普段xy平面で生活している自分のことを、平面と直交するz軸の座標を得て俯瞰する、みたいなことが鳥瞰なので、そういう意味でメタ認知という言われ方になっている。
しかし、先にも述べた通り、
メタ認知は"自分の認知回路で"自分を認知するということだから、結局自分で閉じている。だから、自分にとって怖くない自分を演じることはできても、他者にとってそれは怖くないとは限らないわけだ。
なので、要は別な人の思考回路で自分を見る、客観的客観視というのを考えていかないといけない。一見、人目を気にする、ということと似ているこの行為だが、実はちょっと違う。単純に、"そういう自分を認識すること"に徹するのがここで述べたい客観的客観視である。
ちなみに、メタ認知に倣ってギリシャ語に語彙を求めると、恐らくparaという単語がちょうどよさそうだ。化学で有機化合物のジャンルを学んだことがある人はすぐに理解できるかもしれない。
para=反対側に
自己とは反対側にいるもの(他者)が認知した自己を知る、という話だから、パラ認知でいいだろう。この言葉はもう社会で出回っている言葉なのかざっくり検索してみたが、日本語ではいまいちヒットしなそうだ。英語でメタ認知がmetacognitionなので、試しにparacognitionをググってみると・・・うーん、テレパシー的な話がちょっとヒットする。なので、パラ認知は英訳することがあればちょっと注意かもしれない。
今回は、自分なりに言葉を定義したところで終わりにしたいと思う。次回は、自分なりにこのパラ認知を深めるために授業内で工夫してきたことを書いてみようと思う。
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