考え事#11 怒りの再定義
2つ前の記事で自分の怒りについて触れました。怒りというのはややこしい感情ですね。僕自身、怒りは理性の対局にあり、現代社会の秩序を維持するためには抑圧すべき感情だと教育されてきました。今回はこの「怒り」という感情について考察してみたいと思います。
僕自身の感じる怒りという感情について
僕はもともと、あまり心の広い人間ではないのです。そもそも心が狭いとか広いとかよくわからないし、心の広い人というのはただ拘りが少ない人のように感じたりします。
拘りたいことがあって、それがうまくいかないことに怒るとだいたい周囲から淘汰しようとする圧力がはたらきます。その度に、大人になれだとか心を広く持てだとか我慢しろだとか言われてきました。
ここに、現代の機械論的社会観の根本的な欠陥があると考えます。
怒りを捨てるとはどういうことか
怒りを捨てる、拘りを捨てる、それはつまり個性を捨てろというのと同義なのではないか。これが今回この記事を書くに至った問いです。
本来、怒りという感情は生命にとって最も暖かくて優しい感情なのではないでしょうか。怒りとは、実はとことん自分に向いている感情といえないでしょうか。人間は社会性を獲得する成長過程で、人為的に発生した外部の因果関係を無意識的に怒りと結びつけてしまうようになり、そこから話がややこしくなるのではないかと想像します。
怒りという純粋な感情は、自分の中で内発的に生じた心理的な葛藤状態であり、本来は外部の因果関係とは何ら関係がないものです。その証拠に、同じ現象を目前に、怒る人と怒らない人が常に見られます。
怒りの原因を外部に探すという洗脳
僕らは機械論的な社会構造のなかで教育されるうちに、いつのまにか怒りの原因を外部に作り出す演算装置になってしまったのではないでしょうか。人間の想像力をもってすれば、外に原因を探せばいくらでも物語を作ることができます。つまり、教育を通じて、誰もが怒りを説明するために「A君の〇〇という行動が原因で怒っています。」という物語を作ることに長けていく訳です。
幼少期のことを思い出してみます。
自分や友人が怒ったときに、親や先生に「怒った理由」を聞かれたことがありませんか?
子供はそこで考える訳です。そして、答えます。「A君が僕の大事なおもちゃを壊したからだ!」
A君は叱られ、反省させられ、謝らされ、仲直りをさせられます。
もちろん、自分が叱られる側だったこともあるでしょう。
日本の文化ではとても普通なお話だと思います。
しかしこの時、子供の脳内に蓄積される因果関係は、本来の怒りという感情とは全く別のものとなるのではないでしょうか。
「他人が悪いことをしたから自分は怒ったのだ」
試行回数が増えれば増えるほど、これが逆説的に「怒りとは自分以外の外的要因によってもたらされる負の感情だ」となっても不思議ではありません。
今回は、それは違うということを提起したいです。
怒りが示すもの
先の話で、確かにおもちゃが壊れた原因はA君にあるのかもしれません。
しかし、そこに怒りを感じるかどうかは自分自身の拘りによるはずです。あまり大切にしていたおもちゃでなければ、壊されてもさほど気にならないでしょう。
「怒った」という事実の裏に、その人の拘り、もっと言ってしまえば純粋な「興味や関心」があったということがわかる。ただそれだけで良い気がするのです。
壊されたおもちゃが何だったのか、それは人によって異なると思いますが、そのおもちゃを媒介として「世界とつながる扉」を開いていたからこそ、壊された子供は怒るのではないでしょうか。
解決方法も、きっともっとシンプルで良いのです。「壊されたおもちゃ」を通してその子供がどんな遊びをしていて、それがどんなに素晴らしいことだったのか、話してもらえば良いのです。それを知らなければ、壊してしまった側だってきちんと反省する気持ちになれませんし、その興味を知ることが相手のことを深く知ることにつながるはずですね。
まあ、僕は幼児・児童教育の専門家ではないのでこれが正しい解決策なのかよくわかりませんが。どうなんでしょう?
怒りの有用性
ここまでのことを踏まえると、怒りを感じた時に自分の内なる声に耳を傾けることは非常に有用だと言う事に気づきます。
自分は何に拘っているから怒っているのか。
自分はその拘りをなぜ抱きしめているのか。
僕は最近、この拘りこそが自己であり、主体性だと考えるようになりました。怒りというのは、自分が大切にしているものや自分が世界とどう関わってっていきたいのか、つまり、自分が主体となれる世界観を教えてくれる感情なのです。
怒りを押さえつけることが社会に受け入れられるための訓練なのだとしたら、そこに主体性は育たないように感じます。生きていて怒りを感じることがあったら、それは自分にとって喜ばしいことです。その根源に、自分が抱きしめて、大切にしたい何かがあるはずですからね。
怒りが教えてくれること
現在、学校を取り巻く様々なところで、主体性を育むという文言が散見されます。しかし、(僕が不勉強なだけかもしれませんが)主体性という言葉の定義をきちんと説明した文書を見たことがありません。その中で僕ら教員は、何かしらの「主体性」の定義をもって生徒と向き合うことが求められます。
今回、怒りという感情をよくよく考えてみて、主体性とは「その人が抱きしめている拘り」のことであり、「拘るあまり感じてしまう怒り」こそ、自分の主体性を知るためのチャンスなのだ、と自分の中ではちょっとすっきりしました。
もちろん、あくまで僕が今回思った定義です。主体性、に関しては、いろんな人が様々な形で定義することが大切だと思っています。
皆さんはいつ、怒りを感じますか?
普段、怒りを感じ、それに蓋をすることを善とする「大人」の読者の皆さん、あなたが拘りたいことはなんですか?あなたが怒りを感じることは何ですか?
皆さんが怒りに感じることについて、お話できたらとても嬉しいなぁ。なんて思った次第です。
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