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考え事#21 尖った人が認識すべきこと

2023年2月7日、京都市立葵小学校の研究発表会に参加させていただいた。葵小学校では、小学生がなんと、ゼミ活動をしている。単純に、衝撃を受けた。とにかく時代の先を行っている小学校だ。ご存知無い方は是非HPをご覧いただきたい。
京都市立葵小学校 (city.kyoto.jp)

参加者の大人は、小学校の先生や大学の先生、一般企業の方も含めて総勢170名超。1つの公立小学校にこれだけの人たちが集まるというのが全てを物語っていると感じた。

拝見させていただいた演劇ゼミ、というゼミの発表では、寸劇の発表から始まり、表現、というテーマを小学4年生から6年生が本気で語っていた。

探究のなかで作成した発表用ポスターの横に立ち、自分達が調べたり、体験した内容について、ちょっと緊張しながらも一生懸命に説明する姿が本当に素晴らしかったし、この場を準備してきた先生方のこれまでの労力を想像すると本当に泣きそうな気持になった。厳密にいうと、泣いた。

子供に限らず人間というのは、個人差はあれど普段接点のない人が自分の取組みを見に来てくれるとなると、自分の殻を破って一歩踏み出してみたくなる性質をもっているように思う。
そういう意味で、こうやって学校外に開かれた形で子供たちの取組みを披露する場というのは本当に尊い。

その裏で起こっていたであろう事を想像する

小学生があのレベルで探究活動をできる、というのは並大抵のことではない。先生たちの勤務時間は有限だし、探究活動を行うからといって通常の授業やその他の業務が減るわけでもないだろう。葵小学校では、どうやらそこも含めて働き方改革も徹底されているようで、相当な教職員間の連携が図れているのだろうと感じた(とは言え、きっと持ち帰りでゼミの運営などをそれこそ探究してきた先生の存在を感じずにはいられなかった)。

研究発表後に、参加者の大人たちへの研究会も実施され、そこでその連携のための取組みも垣間見ることになった。

校長と、尖った教員のリーダーシップ

学校という場の組織構造やその中での力学というのは、学校の中で働いたことがないとなかなか想像が難しいのだと思う。
何か「新しいこと」を学校を挙げて実施するというのは本当に難しい。多忙を極める学校現場では、教員は本当に、日々を生き延びるのに必死だ。新しいことを実施するための合意形成を図る余裕は、相当意図して創り出さなければ、無い。

しかし、それでも「新しいこと」にチャレンジする公立学校は日本全国で常に散見される。そこにあるものは一体何なのか。

それが、校長の決断と、それを支える尖った数名の教員がつくる「核コミュニティ」とその周辺の「学習生態系」なのだと僕は考える。尖った教員が大勢いたとしても、校長が決断をしなければ学校は動けない。逆に、校長がいかに決断をしても、それを支えるフォロワーシップを発揮できる尖った教員がいなければ、やはり学校は動けない。核コミュニティはいってみれば、組織のエンジン部分だといえるだろう。

そのうえで、エンジンがいい感じで能力を発揮できるように、その熱量を周囲が受け取り、動力に変える必要がある。

そのキャズムを越えて動くために必要なことが、対話だ。研究会ではすべての登壇者が、そういう事を言っていたと僕は感じた。

教員同士の対話が、最上位目標を決める

最上位目標とは、工藤勇一先生が様々な場面で用いていらっしゃる言葉だ。平たく言えば、「最も大切にすべきことは何かということについて合意形成を図る」ということだと僕は認識している。

教員にもいろいろなタイプの人がいる。
授業を重視したいと考えている先生
課外活動を重視したいと考えている先生
分掌の業務をスマートにこなしたい先生
そもそも、毎日の業務に必死な先生

これらはすべて手段であるはずだ。その先にある最も大切なことは、生徒が安全に、健やかに成長することだろう。

この辺りの話は今回の主題ではないので詳しくは触れないが、とにかく教員集団自体が一枚岩ではないというのが多くの学校の現状だろう。

その状況を突破するための手段が対話だ。
葵小学校ではこの対話の方法として、NVC(非暴力コミュニケーション)の手法を用いていた。

この、NVCの体験ワークショップが当日も実施された。僕はNVCは初体験だったのだが、いくつか気づきを得ることができた。

祝福と嘆き

対話のメインは、今回の研究発表会に対する祝福と嘆きを共有するワークだ。170名超の参加者で、それぞれが参加して感じた祝福と、嘆きを一つずつ紙に書いて床に置いて行く。

そして、それを探検するかのように見て回る。
そこには、形容し難いがそこにいる参加者の思いが可視化される空間が出来上がっていた。いま考えるとあの環境は、Twitterで賛否両論のリプが繋がったツリーに近いものがある。それを、生身のその場にいる人間でやるのだから、かなり心に来るワークだった。

僕がそれを見ていて心が締め付けられたのは、
“うちの学校では出来ない”という類の嘆きが一定数あったことだ。あくまでも、これは批判したい訳ではない点は明記しておきたい。そう感じた方が一定数いたという事実がただそこにあった。

とにかく、この声をどうすれば良いのかという点で僕は途方に暮れてしまった。自分の思考の基本構造が、ここの取り組みから何かを盗むとしたら、まず初めにどこから着手するべきか、だからだ。

僕と同じ感覚の人は、その場にもいただろうし、日本全国にも数多く、いる。1日経ってふと頭の中に現れたのが、正義感という言葉だった。

尖る、と、正義感

どの組織にもおそらく、尖った人材というのは存在する。そういう方を見ていて感じるのは、尖るために尖ろうとした人はいないという事だ。というか、多分尖るために尖るというのは論理が破綻する。

自分が大事にしたいものと直向きに向き合い続けた結果、周囲から見て尖った存在になるのだと思う。周りの尖った人たちを見てもそうだ。

だいぶ前に、怒り、について書いた事がある。
自分の大切にしているモノを、誰かが大切にしてくれなかったとき、人は怒りを感じるのだという話だ。良かったら読んでみてほしい。

ここからはあくまでも僕の話だ。自分が大事にしたいこと、というのは、無意識でもそこに自分にとっての正義のようなものが自然発生する感覚がある。大事にしたい事に正対する時、僕は主体的になる。そして、あることに対して主体的になればなるほど、そこに僕ににとっての正解や正義が発生することになる。
なぜそこにそれほどまでの自信のようなものが芽生えるかといえば、多くの時間を割いたからだろう。単純接触効果というやつだ。そして、想いが強くなればなるほど、そこには正義ともいえる感覚が生じやすくなる。
できることならば、その時間を誰かと共有できるのが一番いいのだと思う。そこにはきっと対話が生じるはずだし、その対話がありさえすれば、尖ってしまうこともない。周りもみんな尖れば、個人が大きく尖ることはないからだ。

自分が大事にしたい事が、自分だけの正義になると、ほかの人の大事にしたい事、他の人にとっての正義との間に対立が生じる。人類の歴史を紐解いてみても、正義と正義の対立は不幸と相場が決まっている。だから、尖っている人にとって大事なのは、"自分にとっての正義"という感覚が生じてしまうほど時間をかける前の段階で、誰かと一緒に対話を深めるなんだな、と感じた。

だいぶあちらこちらに話が飛んでしまったが、葵小学校、本当にすごかった。

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