太田道灌の墓参に伊勢原へ
◇はじめに
室町時代中期で有名な武将と言えば、太田道灌もその一人ではないでしょうか?山吹の花の和歌で己の不勉強さを悟り、武芸を嗜むと同時に和歌も習い、領民や家臣からも慕われた太田道灌公。
◇静岡市駿河区 八幡山
毎年5月中旬に開催される静岡ホビーショーに会場になっている南部体育館隣りに併設されている静岡ツインメッセのすぐ近くに、八幡山があります。
静岡市駿河区、標高63m、八幡山公園の小黒から登る階段は294段です。
何の変哲も無さそうな小高い丘のような山は遠い昔、八幡山城という山城がありました😱 地元の方でも知らない人は多いと、思います。
この八幡山に静岡・駿河の地の防衛の観点から築城を命じたのが今川家4代目当主・今川五郎範政でした。今川家の当主は代々五郎を名乗って、家督を継いで来ましたが、今川家の歴史は、家督相続の歴史でもあります。
4代目範政も晩年に生まれた側室の幼子・小鹿範頼に家督を継がせようとして、嫡子・今川彦五郎範忠と熾烈な跡目争いに発展してしまい、室町幕府6代目将軍・足利義教の裁定により、5代目は辛うじて範忠がその座に就きました。
これで懲りないのが今川家。
範忠は、嫡子彦五郎義忠に家督を譲るのですが、義忠から背いて尾張・斯波氏に呼応した地元の勝間田・横地氏を成敗しに遠州まで出張った帰路の塩買坂《しょうばいざか》で、反乱兵士の🏹流れ矢に当たり、幼い嫡子・彦五郎氏親を残して急死してしまいます。文明八年(1476年)2月のことです。
塩買坂のすぐ脇にある古刹・正林寺、ここに義忠の墓所があります。
その幼子・龍王丸と若き正室、北川殿と、甥にあたる小鹿範満が家督相続を巡って、再び争います😱
この小鹿範満の縁者が扇谷上杉家の当主・上杉定正で、範満支援のために、わざわざ関東から派遣されたのが太田道灌でした。
文明八年3月(1476年)には派遣が決定され、6月に足柄峠を越えた太田道灌が駿河に入国し、着陣したのが八幡山城でした。
◇道灌と北条早雲
着陣した太田道灌の許に、家督相続の内紛を交渉に京都から出張った来たのは、室町幕府申次衆・伊勢盛定の息子・伊勢新九郎、没後に北条早雲と語られた下剋上の最たる人物です。
室町幕府は、関東管領の要職を務める上杉家が関東並びに駿河まで覇権が拡大し、室町幕府・副将軍の今川家にその影響力が及ぶことを警戒したため、伊勢新九郎を派遣しました。
若き新九郎が関東管領の一つ扇谷上杉家の家宰・太田道灌とこの八幡山城で今川家の将来を語り合います。
北条早雲にとっては、嫡男・龍王丸の母、北川殿は姉であり、幕府の密命もあり一歩も引くわけには参りません。
対して、太田道灌も子供の使い番ではありませんので、容易に譲歩するわけにもいかず、交渉は難航が予想されました。
北条早雲は太田道灌に妥協案を出し、幼子・竜王丸が15歳になるまでは庶流の小鹿範満が当主代行を勤めて、成人したら嫡流の竜王丸に家督を継がせ今川家当主とする、という折衷案です。
太田道灌はこの折衷案で妥協して、関東に戻りますがそれには伊勢新九郎に知られたくない扇谷上杉家が置かれた背景があります。
実は、道灌が駿河へ出張っていた関東のお膝元では、従兄弟の長尾景春が謀叛を起こし、関東一円はあちこちで小競り合いが勃発していて、駿河の家督相続の争いに首を突っ込んで入る余裕は無くなってしまったのです。
中東アラブの諺に、
〝敵の敵は、「友」〟と、ありますが、その点でも伊勢新九郎=北条早雲は憑いていました。
その10年後に、主君からその才能を疎まれて謀殺されてしまうのです。
川越が彼の本貫地でありながら、なぜ⁉️
神奈川県伊勢原市に墓があるのでしょうか?🤔
◇いざ、伊勢原へ
伊勢原市には学生時代に何度か訪ねました。
東海大学病院があるからです。
🚉小田急伊勢原駅から少し歩くので、🚌バスで行きました。
扇ヶ谷上杉家の家宰にして、能力が高く戦上手で和歌にも精通していたまさに、〝文部両道〟な武将です。
太田道灌《おおた どうかん》道灌は号で、名前は資長《すけなが》と、称しました。
室町時代に、江戸城を築城したことでも知られている太田道灌は、千代田区にあった旧 東京都庁舎前に銅像があったはずです。
彼を一躍有名にしたエピソードが‥‥。
あるとき道灌は狩りに出かけた折、急な☔️で雨宿りをしようとした民家で一人の娘に、雨除けに蓑を貸して来れと頼んでみたところ、その娘に山吹の花を一輪差し出されただけでした。
仕方なく、道灌は濡れたまま帰陣しました。
周りの者に、あの娘は☔️が降り頻るのに蓑を貸して来れ無かったとボヤいて周ると、「七重八重 花は咲けども 山吹の実の 一つだになきぞ 悲しき」という『後拾遺和歌集』の中にある兼明親王和歌があることを知らされて、〝山吹の実の〟と、〝蓑〟を掛けてあり、 〝蓑〟すらお貸し出来ない貧しい民家であることを遠回しに伝えた民家の娘の教養に恥じ入り、和歌も勉強し出したという武将です。
太田道灌は、公家たちには詠まない壮大な歌を歌います。
文明六年六月十七日 庚子
(新暦1474年7月30日 土曜日)、太田道灌は江戸城で歌合を催しました。
太田道灌、42歳の時の歌で、歌合の歌題は「海の上の夕立」です。
道灌が築城した当時の江戸城の周回は湿地帯に覆われ、その先の日比谷から先は日比谷入江が入り込み、さらにその先は江戸湾に繋がっていました。
首都機能や🏢ビルが立ち並ぶ町並みがところ狭しとひしめき合う日比谷・銀座・数寄屋橋界隈が嘘のようです。
時が経ち、小田原を囲っていた豊臣秀吉に江戸移封を言い渡され、初めて江戸に入府したあの徳川家康が落胆するほどの湿地帯でした。
そんな湿地帯であるにも関わらず、戦略的要衝であることを見抜いていた太田道灌は、主君を説き江戸城を築城します。
きっと、舟で移動や通商を想定していたのでしょう、先見の明があります👍🏻
太田道灌は幼少期、鎌倉五山筆頭・建長寺や栃木県足利市にある日本で最も古い学校・足利学校で学びます。太田道灌の博学は幼い頃からの勉強に裏付けされ、家臣たちにも日頃からの鍛錬や学びを怠ると、注意だけでなく罰金まで命じていました。
それだけに道灌率いる太田軍は強くて、次第に関東一円で扇谷上杉家の声望が高まります。
◇道灌、主君に謀殺
そんな有能な武将を持つ主君、扇谷上杉家当主・上杉定正はさぞかし安泰かと思いきや、暗愚な定正は太田道灌の能力を危惧しだします。
主君・定正は次第に讒言も厭わない道灌を煙たがり、献策を軽んじるようになっていきます。そして、ついには自らの命で謀殺してしまいます😱
文明十八年七月二六日 己巳(新暦1486年8月25日 金曜日)に主君、上杉定正の館の一つである糠屋館(神奈川県伊勢原市)に多年の労を労いたいと太田道灌を招き、♨️湯を勧めます。
道灌を湯を誘ったのは、武具や太刀を身に纏わせず抵抗を弱める狙いがありました。
湯から上がり脱衣所で定正の命に従った曽我兵庫に背後から襲撃され、一度は逃げたものの深傷を負っていた太田道灌はここ、伊勢原市下糠屋にある洞昌院《とうしょういん》の門前で留めを刺されて絶命してしまいます。
言い伝えでは、夜であったため洞昌院の山門が閉門していて、襲撃の追手にこの門前に追い詰められて、留めを刺された際に、あの有名な一言、
「当方、滅亡」 (当家・扇谷上杉家は滅亡する)
と言い残し絶命します。
享年55歳。
後で知った洞昌院のご住職・傑山祖栄は以後、山門を取り払い山門を作らずに現在に至っています。
その洞昌院を訪ねて来ました。
🚃小田急伊勢原駅🚉で下車します。小田原から伊勢原駅まで急行でも行けますが、伊勢原にも停まる特急ロマンスカーがあることを知り、初めて乗車します。
小田原駅からロマンスカーに乗車する、この高揚感がたまりません。
JRから小田急のホームに至るまで、券売機だけでなく、お土産屋、喫茶店、立ち食い蕎麦に駅弁にコンビニまであります。
ロマンスカーの中で、昼食です。
秦野、母校、鶴巻温泉を通過すると、伊勢原駅です。ここは、大山阿夫利神社の門前ということもあり、前から開けていました。
🚌で行こうか迷いましたが、ググってみると15分とあるので👣歩きます。
が、‥‥。
Googleマップのナビ検索にしてやられました🤣
伊勢原駅から上粕屋まで、徒歩🚶🏻15分では着きません。
東西に奔る国道246号線を越えた辺りから、とてもじゃないが15分どころか1時間はかかりそうだと、認識してしまいますが、ここまで来て引き返すのも無駄になるので、自動車部品の市光工業の大きな伊勢原工場🏭を迂回しながら、何度もナビに騙されては歩き続けます🥹
やられた❗️やられた❗️と思いながら歩いていると工場の隣りに秋山自動車整備工場がありました。もう少し勾配のある坂道を北上すると、🚌神奈中バスのバス停「〆引」《しめひき》がありましたので挫折し🚌に乗ろうとしたら1時間に1〜2本しか、この門を通りません🤣
仕方なく歩き出そうとすると🪧が👀目につきました。
⛩五霊神社《ごりょうじんじゃ》で、小休止すると共に看板を拝読。
大同元年(806年)に創建されたとあり驚きですが、さらに読み進めていくと太田道灌と伊勢新九郎ともゆかりがあるらしい。
どうやら、太田道灌を惜しんで明応三年九月十三日 乙巳(新暦に直すと、1493年10月23日 水曜日)に伊勢新九郎は、この五霊神社に合わせて合祀したと、あります。
太田道灌が非業のしを遂げてしまってから、七年が経っています。きっと、若き北条早雲は七回忌のつもりで、洞昌院へ参詣する際に、この⛩五霊神社に太田道灌を合祀したのでしょう。
伊勢新九郎=北条早雲の年齢は不詳ですが、一説によれば、駿河・八幡山で太田道灌と会談した際は、若干24歳と言われていますので、合祀した時は41際でした。
この頃の伊勢新九郎は既に伊勢宗瑞と名乗り、🐉龍王丸(当主・今川氏親)の後見としての地位が確立し、興国寺城(静岡県沼津市)の城守として、伊豆討ち入りを画策し、その準備に追われている頃でした。
伊勢宗瑞は、相模・武蔵に扇谷上杉定正を牽制するために出陣するそんな忙しい最中、わざわざ伊豆国・興国寺城から相模国、しかも箱根峠を越えて来たのでしょう。 伊勢新九郎も太田道灌のことを忘れられない人物だったのでしょうね。
◇道灌の墓所・洞昌院
⛩五霊神社を参詣して🙏🏻小休憩。
また、とぼとぼと歩き出し、東名高速道路の高架を潜ります。分岐が合流すると大山阿夫利神社の参道です。
大山は古くから山岳信仰と結びつき、多くの修験者が悟りと祈りのために、むかいました。
創建は古く、📖『日本書紀』にも登場する崇神天皇の御代だというのですから、2千年以上の歴史があると言うので、驚きです😱
ここからさらに北上し、交差点の角にコンビニがありますので右折、東に向かい400mほど歩くとようやく洞昌院があります。
伺った日は、あいにく曇っていたので、大山の山容は解りませんでしたが、ひっそりとした場所で、農家や🌽農地が広がるところです。
どんな想いで、道灌はこの山門に辿り着いたのでしょうか?
能力が高いが故に、疎まれた太田道灌公。
女の嫉妬は見苦しいですが、男の嫉妬はそれ以上に、無残で残酷な結果ももたらします🥲
静かに手を合わせて、帰路につきました。
道すがら、道灌公の従者七人の塚があるようですが、発見できませんでした。
帰りは、先ほどのバス停🚏「〆引」まで戻り、🚌神奈中バスで伊勢原駅へ。
〆引→伊勢原駅まで170円でした。
学生の頃の小田急8000系は新型車両でしたが、今ではすっかりローカル色になって、時の流れを感じさせますが、乗り心地はあくまでも上品でした。
(終わり)