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忠敬先生の足跡 3 『4-13・14由比宿』
□第四次測量 13日目・14日目 由比宿
享和3年3月7日〜8日(1803年4月28日〜29日)。
伊能忠敬先生の足跡👣を辿りながら、地元のことも再発見していこうとする試みの第三回目です。
今回は伊能忠敬第四次測量13日目と14日目にあたる由比宿の巻です。
〔第5次測量の12日目・文化2年(1805年)3月6日にも由比宿・羽根屋に宿泊しているだけでなく、第6次測量の帰路371日目の文化6年(1809年)正月12日にも由比宿・羽根屋を利用しています。〕
由比宿の名は、この地を源頼朝から安堵された大宅氏の子孫が由比氏と称したことに由来します。
観応2年12月(1352年)の薩埵山合戦で隣りの興津氏と共に、数で劣勢だった足利尊氏軍に今川氏二代目当主・範氏公と共に加勢し、尊氏軍勝利に貢献し観応の擾乱を事実上終結に向かわせました。
その末裔がこの地で問屋、本陣を勤めました。
東の蒲原宿←一里6.3km⇆西の興津宿まで二里十二町7.3km離れており、宿場並は東西五町半(約600m)で、興津宿よりは小ぶりです。
忠敬先生の歩測にあやかって、薩埵峠から興津宿へは、👣徒歩で6535歩、距離5.0km、294kcalでした。(2022年の🌀台風15号の影響で薩埵峠の展望台に繋がる自然歩道が崩落しているため、一部迂回しましたので、実際にはこれよりもう少し距離や歩数は短いです。)
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※旧東海道は上道・中道・下道に分かれています。
※地元の方々に尋ねてみたら、薩埵峠は安政大地震の前でも、干潮時には下道が海岸線に現れ、通行していたようです
翌14日目は☔️だったようで雨天逗留のため由比宿に連泊します。興津川の川止が重なったら、隣りの由比宿の先にある由比川も川止になる可能性大だとみるべきです🤔
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※薩埵峠からの富士山を描かれたのでしょうね。
由比宿のほぼ真ん中を南北に流れる由比川は、仮の板橋が架橋されていて、旅人はその板橋を渡っていましたが、☔️が降って水量が増すとこの板橋は取り外され川止となり、由比宿も足止めとなってしまった旅人でごった返したと、言います。
その先の富士川も川止になったはずで、東海道は天候によって旅程が大きく変わりましたので、旅費もかさみます。旅費を少しでも節約したい参勤交代の大名行列は、中山道を好んで利用されました。
志賀直哉の代表作『夜明け前』では、中山道の妻籠・馬籠宿の佇まいを描いていますが、14代将軍・家茂に嫁ぐ皇女・和宮の一行も中山道を利用して江戸に下向しています。
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※孝明天皇の妹君、皇女・和宮の隊列は2万人にも及び、隊列の長さは77kmも連なったと記録に残っています。
☔️大雨増水の川止の際には、由比宿・蒲原宿・興津宿は、足止めになった旅客で混雑したことでしょうね。
歌川広重が37歳、1835年頃に描いた浮世絵の由比宿を過ぎ薩埵峠からの富士山。未だこの頃は安政大地震で地盤が隆起していなかったため、陸路の東海道は描かれていません。
忠敬先生も旧東海道を西に向かうため、富士山の計測が終わってからここを通り、薩埵峠を登り始める先の西倉沢で休憩と中食(昼食)をいただいたことでしょう。
東海道の下道・中道の分岐が西倉沢地区です。
この分岐点とも言うべき西倉沢に藤屋と言う間宿があります。
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※西郷隆盛は江戸無血開城を考えていませんでしたが、勝海舟・山岡鉄舟に加えて薩摩藩から将軍家に嫁いだ天璋院・篤姫に懇願され方針転換をし、江戸無血開城に傾きます。
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※勝は、場合によっては斬りつけるつもりでアポなし訪問でやって来た坂本龍馬の話しに真摯に耳を傾けます。
勝の審美眼に心酔した龍馬が弟子にして欲しいと懇願すると
勝は龍馬に向かい、
「おめえさん、おいらを斬りに来たんだだろう」と、
龍馬を更に魅了させてしまう話術と胆力がありました🗣
ここにも歴史の生き証人たる遺産があります。
幕末、江戸無血開城のために幕臣・勝海舟の密命を受けた山岡鉄舟が薩長土肥の征討軍の司令官・西郷隆盛に直談判するために、介助を求めて飛び込んだ「望嶽亭」と呼ばれたなが間の宿・藤屋でした。
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※山本兼一さんの小説、面白かったのですが著者が早逝されてしまい、大変残念です🥲
詳しくは、山本兼一さんが山岡鉄舟の半生を描いた📖小説『命もいらず名もいらず』には、緊迫した場面が描かれています。
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※鉄舟は当時の人には珍しく長身大柄な人物で、剣術の腕前もかなりの手練れな幕臣でした。
薩埵峠まで早足でやって来た鉄舟は進軍して来た官軍の立哨に見つかり、後を追われて藤屋に逃げ込みます。店主の機転で急場を凌ぎ、駿府に着陣している西郷隆盛に、どうしても会わねばならないことを力説し、階下にある秘密の階段から由比浜に出て小舟で江尻湊(現在の静岡市清水区の清水港橋)までは送って貰います💦
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※普段は床とツラ一の蓋があり、NPOの案内人の方が特別に開けて見せて下さいました。
この階段を山岡鉄舟が降りて行き、由比の浜にひっそりと出て行ったのです😱
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※窓からは駿河灘が蒼く広がっていました。
望嶽亭には山岡鉄舟にまつわる品々が多数、写真と共に展示されていました。
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※山岡鉄舟が護身用に携帯していたピストルまであります
港橋からはこの辺りを根城とする任侠の世界で有名な〝清水の次郎長〟こと、山本長五郎に鉄舟は助力を懇願します🙇🏻♂️
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※藤屋に入れる機会がありました。ここには、山本さんの小説にも登場した由比浜に出れる秘密の階段があり、ここから山岡鉄舟は浜に出て、薩埵峠辺りで徘徊する官軍の立哨から逃れ、江尻湊に向かいます。
山岡鉄舟の命を賭けた伝達行脚は清水界隈でヤクザとして名を馳せていた〝清水の次郎長〟山本長五郎が鉄舟の想いに感じ入り、助力を快諾します👍🏻
次郎長の右腕、差配したのが大政小政の大政と、小説は生き生きと描いています。
大政は次郎長の支配人のような役回りでしたから多分、そうだったと思います。
次郎長は戊辰戦争を憂いていました。
江尻湊港内に浮かぶ多数の土左衛門、次郎長は誰に言われるまでもなく、死人に官軍も賊軍もない成仏出来るよう死体を引き揚げて懇ろに弔ったと言います。
それだけに、山岡鉄舟の江戸無血開城の意義を誰よりも篤く感じ取ったのでしょう。
陸路では、西郷隆盛が居る駿府・上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に辿り着くことは不可能でしたので、江尻湊から更に舟を出し海路、駿府に腕の立つ舎弟たちを護衛させて松崎屋に送り届けます。
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※私の祖母の母が生前、次郎長を見かけたことがあるそうで、「痘痕面の不味い男だった」と。
ですから、そんな大昔の話しではありません。
その先は幕末の顛末を語る投稿ではないので省略しますが、ご興味のお有りの方はぜひ小説をご一読下さい。
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※静岡中央署の反対側にあります。背景は静岡県庁・西館
この望嶽亭・藤屋の名物が『茶屋の餅』。由比宿の名物だそうです。砂糖にきな粉をまぶせた餅で、美味しゅうございました😋
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※絵は『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんが描かれています。
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※素朴な味わいがどこか懐かしく感じます。
藤屋を西に向かい始めると、いよいよ登り始め西倉沢地区とはお別れです。
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※ここが旧東海道、薩埵峠への登りが始まります💦
現在でも、国道1号線には「西倉沢」の交差点表示の看板があります。
由比宿にある「由比の一里塚」は東端と西端にあり、東端の一里塚は日本橋より39番目、距離にして約156kmです。
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※由比宿にも興津宿と同じ構成で作られた宿場町の案内板がありました。
西端の一里塚は日本橋から40番目にあたり距離は👣約160km程になり、西倉沢地区はちょうど西の一里塚がある周辺です。
由比宿の案内図を拝見すると、東西の両端は枡形に道が屈折していたようで、現在でもその名残りは感じさせるところがあります。
伊能測量隊一行は旧暦・享和3年3月日(新暦では1803年4月28日)、2週間ほどで由比宿まで来ました👣前日、田子の浦港に近い田子村を出立し、海岸線の測量をしながら由比宿まで来たのです。
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※伊能忠敬測量隊一行は漁港近くの田子村から由比に向かいました。伊能忠敬e史料館によれば、この公園よりもう少し西にある田子村から出発しています。
日記によると、伊能忠敬は由比の海岸線で富士山の標高や方位を測るべく海岸線とは別に富士山も測量しています。
伊能忠敬は、前々日の三月五日、沼津城下でも象限儀という測量機器で🗻富士山を計測しています。
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※伊能忠敬がよく覗く姿を表しています。
象限儀とは、円の1/4の扇型に目盛がある測量器・四分儀のことのようで主に天体観測用の測量器を夜の天体観測、昼間の午中観測だけでなく、富士山の計測にも活用しました。
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※伊能忠敬先生がご利用なさっておられた実際の象限儀だそうです。
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※眼下に広がる町が由比宿から蒲原宿です。
薩埵峠から由比を遠望すると、弧を描くように海岸線が曲がっています。L字型の防波堤がある辺りが由比漁港で、桜エビや生シラスが取れますので、由比宿界隈では桜エビを取り扱うお店も多いです。
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※由比駅前を東西に延びる県道は通称〝由比桜えび通り〟と言われています。
数学の要素を取り入れて、三角形の性質である距離と角度と斜辺が判れば、残る一辺である標高が割り出せるというものです。日本の水準点が決まったのは明治以降で国会議事堂のそばにある日本水準点が無かった江戸時代には伊能の師匠である高橋至時のご指導を忠実に守り、各地で富士山の標高を測るべく計測しています。
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※50歳から弟子入りした伊能忠敬は自身の子供と同い年ほどの高橋至時に算術も学びます。
師匠・高橋至時から和算も教示いただいた忠敬先生は、今で言う三角比とピタゴラスの定理を応用して、富士山の標高も計測し始めます。
恥ずかしながら、私は中学・高校の時の数学の成績は散々で赤点スレスレでした😅
でも忠敬先生も50歳を過ぎてから和算を学びましたので、私も納屋の何処かに閉まってある数学の教科書と参考書、授業中に筆記した📓ノートを引っ張り出して、改めて勉強し直してみました🤔
思い出しました🥹
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※最初はPowerPointで作成を試みたのですが手間と時間がかかり過ぎ、結局手書きで書き写しました。
卒業証書を授かった翌日、数学の加藤章一先生が有志を集めて下さり、
「これから大学へ進学する諸君、とりわけ文系に進む君らにはもう必要がないかもしれないが、大学での一般教養課程で恥をかかないように、また数学的素養が求められるケースもあるだろうから、今日から3月31日までの数学の授業は自身の研鑽の為に学んで欲しい❗️」 と🗣
要約するとこんな話をして下さり、卒業式の翌日6日から31日まで、日曜日を除く21日間もの間、ご熱心にご教授いただきました。
加藤先生は、東海大相模から私の母校の東海大一高に赴任して来られた数学の先生で、私のことも手を焼かれたと思います。
※1.高校1年生の時に習った数学Ⅰの教科書の裏表紙にあった三角比の表をExcelで表にしました。
サイン・コサイン・タンジェント(sin・cosine・tangent)がこんな時に役立つとは思っていなかったです😅
もっと数学も勉強しておくべきでした。でも、このことに気付かせて下さった加藤先生や伊能忠敬に感謝、感謝です🙇🏻♂️
この場をお借りして、遅まきながら感謝申し上げます🙇🏻♂️
どうも、ありがとうございました。
その加藤先生の熱血指導ノートを参考にして、三角比の値を求めれば、計測できるはずです🤔
習いましたね⁉️三平方の定理、つまりピタゴラスの定理の応用です。
1.三角形の角度にあたるのが「仰角」。
2.測量場所から富士山にあたる距離が「底辺」
3.富士山の標高を三角形の「対辺」
と、言い換えることが出来ます。
これをsin・cosine・tangentの中学3年から高校数学Ⅰで学んだ三角比を使って、🗻富士山の高さを求めます。
高校の時には区別がつかなかったのですが、加藤先生の熱血指導ノートを見れば一目瞭然。
底辺・角度から対辺の値を求めるには、英語の小文字「t」の字をあしらったように描くタンジェントを用います。
斜辺を𝒄、底辺(富士山までの直線距離)を𝒃、対辺(富士山の標高)を𝒂で表した時、四分儀で図った仰角θ(シータ)は三角比の特徴であるこの式を活用します。
※1.θ(シータはここでは仰角、〝なす角〟)
𝑎 = 𝑏 × tan θ
〔この式では⏩ 𝑎 = 𝐜 × sin θ 斜辺𝑐を求めておかねばならずtanが適切であるかと思われます。〕
「対辺」にあたる高さを知る為には、測量で求めた底辺にあたる距離と測量機器・四分儀で測った仰角にあたる角度が計測により、導き出されていますので、tangentタンジェントθを活躍して標高を導き出したのでした。
※2.tangent タンジェントの値は「三角比の表」、小数点第四位まで記しています。
そこで忘れてはならないのが、地上から計測した目線である👀目の高さも対辺に加算して、富士山の高さを求めたのです。ですから四分儀で計測した人物はおそらく同一人物か、もしくは計測する人物の身長差と目線の高さを把握してことでしょう。
現在では、誰でも知る🗻富士山の標高3776mも、当時はその算出に和算を用いて、数々の計測から平均値によって導き出しました💦
因みに三平方の定理のことを和算では、中国での算術用語を引用して、「鉤股弦」《こうこげん》の定理と呼ばれています。
高橋至時は、天文方で作曆の日常業務の合間に忠敬先生に中国の算術も教えていますので、「鉤股弦」の定理も理解していたと思われます。
忠敬先生は、由比宿にも旧暦3月7日 壬寅 (新暦1803年4月28日 木曜日)に宿泊し測量を続けます。
四次 測量日記第六巻 享和三年三月七日
宿泊地 由比宿 天体観測なし
休 蒲原宿 本陣木川屋只七
富士川を渡る
曆局へ用状を出
▪️宿舎 羽根屋伴右衛門
休 蒲原宿 木川屋只七
見舞 江川代官手代 夏目小七郎
▪️大図107号 静岡
忠敬先生はここ、由比でも幕府天文方の曆局に、用状を書き送っています。曆局では伊能忠敬の師匠である高橋至時が改暦の作業に追われていました。
日蝕や月蝕の予報をよく外す当時採用されていた貞享暦の改訂が急務だったからで、当時の🎯予報的中率は前回の投稿の『4-15・興津宿』でExcelのDBにして登載してありますから、ご興味のお有りの方はご参照ください。
当時の曆には不吉な予兆とされる惑星蝕の中で、とりわけ日蝕・月蝕の予報を登載していました。ただし日蝕の的中率は68.2%、月蝕の的中率は56.5%で天変の的中率は〝話し半分〟の状態で、公的機関が発行する曆としては、甚だお粗末な内容です。
現在とは違い作曆は、私的に着手してはならず朝廷の専権事項でした。
〔太平洋戦争の終戦後に初めて民間でも私的な暦を📆作る作曆が認められるました。それ以前は陰陽師の安倍晴明が家祖である土御門家が携わっていたのですが、江戸幕府は見兼ねて幕府天文方を上洛させて作曆の助言や助力に乗り出す最中でした。〕
多忙極まる高橋至時に御用の書状を出すことから、作曆に関する天体観測から得た情報だったかもしれませんね。
内容が気になります。
この由比宿に投宿している際に、韮山代官、江川太郎左衛門英毅の手代・夏目小七郎の見舞い訪問を受けます。
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※親子は似ると言われてますので、父・英毅も江川担庵に似た人物だったことでしょう。
皆さんがご存知の海防のために東京お台場建設を進言し工事に着手させた江川太郎左衛門英龍《ひでたつ》、通称「担庵」の父です。
韮山代官は代々の世襲で代々、太郎左衛門を名乗っていますので、混同してしまいますが、担庵の生まれは享和元年(1801年5月13日)ですので、この年は未だ2歳。いくら英明誉れ高い担庵でも2歳では、伊能忠敬の許に、見舞いは出せません😅
伊能忠敬は第二次測量の際に、伊豆を測量する途上、韮山代官へ赴き、江川太郎左衛門と海防や地図作成など意見交換する意味で、会談しています。互いに技術に造詣が深い両氏のこと、会談は社交辞令も程々に海防や測量などの専門的な意見交換が出来て、手応えを感じたことでしょう。📖日記には、会談の内容までは詳細は記されておらず、江川太郎左衛門と歓談した事実だけが記述されています。
そのため、再び駿河を訪れている伊能忠敬に陣中見舞いとして、手代の夏目小七郎を派遣したのでしょうね。
恐らく、天体観測のデータなども書き送ったはずです。第四測量として出発して13日間の中で既に、8回の🔭天体観測をして来ています。
連泊した二日目も、午前中まで残った☔️も夜には明けたようで由比宿でも天体観測をしています。多分、この夜も天体観測をしていたので、🍶お酒は飲まなかったはずです😅
四次 測量日記第六巻 享和三年三月八日
宿泊地 由比宿 天体観測あり
雨天逗留
宿舎 羽根屋伴右衛門
大図107号 静岡
由比宿で宿泊した羽根屋は由比宿の看板を参考にすると、「羽根ノ屋」とあり、浄土宗・延命寺の参道を挟んで井筒屋の隣に位置していました。井筒屋は現存し、今では食事処となっていて、井筒屋の隣「問屋場」(加宿問屋)は看板を残すのみで、現在は和菓子匠となっています。
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※加宿問屋場の隣が由比本陣、現在の広重美術館があります。
「加宿問屋場」とは、
加宿十一ヶ村(由比の北田・町屋原・今宿など)が共同で問屋場を設営しました。問屋場とは幕府の命令で街道通行人のために人足と駄馬を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が一ヶ月交代で役目を担わされていました。
※隣の興津宿では関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年正月にはこの伝馬制が徳川家康より命じられています。由比宿にもほぼ同時期に命じられているはずで、この伝馬制を支えるための人足の人件費・馬の飼育費が嵩み各宿場では大変な負担となっており、各宿場は折に触れて運上などの減免や軽減を訴え出ていました。
由比宿の場合、本宿と加宿が月番の輪番制を採ることで費用の負担を軽減したものと思われます。
近世史を学んだ方なら覚えておられると思いますが、伊能忠敬が19歳だった明和元年(1764年)12月16日 癸巳(新暦では1765年1月7日 月曜日)、幕府は中山道沿いの各宿場に「増助郷」《ますすけごう》と言って、臨時の増税を命じます。
将軍の日光東照宮参詣費用を捻出することを大義に、日光に向かう中山道沿いの各宿場に時の老中首座で、勝手掛老中の松平武元《たけちか》が地元商人と結託して一儲けしようと画策、特別税を課すことにしました。
幕府は時折り、この手の臨時増税を課し農村の蜂起への鎮撫策として、租税施策を撤回してしまいますが、この中山道伝馬騒動が先例となります。やはり、胡散臭い臨時徴収は農民も敏感に感じるのでしょうね。
田沼意次も臨時徴収を金座・銀座・銭座を請け負う商人たちに課そうとしますが、この中山道伝馬騒動の先例から商人たちのボイコットで臨時徴収策を撤回に追い込まれてしまい、田沼意次の悪名が定着してしまいます。
田沼の臨時徴収策は、勝手掛老中の松平武元よりビジョンがあり、志もありました。
疲弊する幕府財政に、新たな納税者として今まで課税対象者にして来なかった商人にも、相応の納税をして戴こうとする田沼意次の献策は、当時の為政者として画期的でしたし、一つの見識でしたが、中山道伝馬騒動のとばっちりを被ってしまいます🤔
そんな中山道も伝馬制があり、人足と馬を各宿場で分担、その差配を問屋場が仕切っていたのですが、公用は無料、私用は有料との取り決めを家康が命じたのです。有料ならともかく無料なら全額、宿場の負担となります。
そこへ来て更なる臨時増税に怒った武蔵国本庄宿場の農民が蜂起して一揆となり、これを教科書てきには、「中山道伝馬騒動」と、呼びます。
一揆は瞬く間に広がり、農民の攻勢に怯んだ幕府は12月29日に、「増助郷」撤廃に追い込まれるという大失態をしでかします。
因みに、この「増助郷」を如何なものか?と、否定的な態度を取り、老中首座に詰め寄ったのが幕閣にも物申す、将軍・家治の信任厚い側用人だった田沼意次です。
〝賄賂政治の権化〟のようなイメージが付きまといますが、田沼意次の方が当時の幕閣よりよほどクリーンな幕吏でした。
それほどまでに、街道筋の宿場町が負担させられていた伝馬制は重税に等しいものでした。
翌3月8日は、☔️雨で、由比宿に逗留することになった伊能隊も🌠夜には天体観測が出来るまで天候が回復したようで、前日には観測出来なかった🔭天体観測を実施しています。
測量日記によれば、由比宿では羽根屋に宿泊したと記しています。
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※寺の参道の隣り井筒屋は現在、食事処として営まれていて、白い3階建の建物が井筒屋です。
現在は羽根屋はありません。
跡を示すのは由比宿の🪧のみです。ですが、忠敬先生はここで由比周辺を測量しながら連泊したのです。
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北に目を向ければ、標高707mの浜石岳が聳え立っています。目の前は駿河灘、鬼門の方角には🗻富士山も見えていたかもしれません。日記には富士山以外にも山々を測量したことが窺えますので、浜石岳も測量したかもしれませんね。
ここまで来ると、お腹が空きましたので羽根屋の隣りにある和食処「井筒屋」で、由比のもう一つの名物🦐サクラ海老のかき揚げ丼を食べます。
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※由比に来たなら、サクラ海老のかき揚げ丼❣️
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右隣が問屋場でその隣りが由比本陣、現在の由比安藤広重美術館です。
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※この通りが旧東海道で、西に薩埵峠につながる薩埵山を望みます。
由比宿には江戸時代から続く銘菓「さとう餅」がありました。現在では「たまご餅」と言われています。弥次さん喜多さんで有名な『東海道中膝栗毛』にも登場した伝統の和菓子です。
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※素朴な風味と甘味、美味しゅうございました😋
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※ひっそりとたまご餅を売っています。
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※当時の佇まいを忠実に再現されていました
由比本陣の真向かいには「正雪紺屋」がありました。江戸初期、兵学者・由比正雪は幕府転覆を狙い密かに計画準備していましたが、密告により駿府・人宿町で捕縛されて、幕府転覆は頓挫してしまいますが、その由比正雪の実家がここです。
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※現在でも営んでおられました。正雪の墓は静岡市葵区の弥勒の安倍川のそばに、首塚は静岡市葵区沓谷にある愛宕霊園内にある菩提樹院にあります。
由比正雪の父・吉岡治右衛門は、尾張中村の同郷で立身出世した豊臣秀吉との縁で大坂へ移り住み、染物業を営み、関ヶ原合戦では西軍の石田三成に乞われて西軍に参加し、戦後にこの由比の地で染物業を営み始めたのが正雪紺屋の始まりとか。
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※臨済宗妙心寺派の名刹・菩提樹院。
安倍川の河川敷で磔になった正雪の未首級を無名な女性が菩提樹院に持ち込み、葬って貰ったために首塚があります。
昔の寺町だった現在の静岡市の常磐公園にあった菩提樹院は未首級を懇ろに弔います。
その後、太平洋戦争の際に、寺町は集団で現在の愛宕霊園に疎開し、以来この場に由比正雪の首塚があります。
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昔の日本は貧乏でしたけど、心ある良識を持ち合わせた方々がたくさんいたのですね🥹
伊能忠敬測量隊は由比宿でも測量と天体観測をして、次の三保村へと向かいます。
(第三回 終わり)
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