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水玉ハンマー、極楽と:TRACK 1『OFF NIGHT』

その女は、ぬらぬらと動いている。

スニーカーが地面に接するたびだ。床一面にぶちまけられた血がべちゃべちゃと音を立てて気味が悪い。
「西縁遁寺3番ビルヂング」の1階から3階を占めている「牛見保険センター」。
今日の21時を以て、営業終了となった。これからは、誰も明かりをつけない。永遠に。

女は頭をかく。わしゃわしゃとかき乱す。ぶかぶかなスタジアムジャケットには染みが付いているが、それを気にする素振りはない。
もっと別のもの、何かを探しているようだった。そわそわとオフィステーブルの間を歩く。密林を探るように。

「この辺のはず、なんだけど……」

手当たり次第にPCの電源を入れるのも、3階から探し始めて、これで最後。冷静になってから何度も死体と目が合ったが、慣れた物だと放置した。
確実に頭は冷えている。心拍数もいつも通り。

そう、死体は良い。どうせこの後も追ってこない。だがカメラ映像はまずい。この辺りをシメている連中の怒りを買って、地獄の消耗戦を繰り広げた場合の苦痛は計り知れない。腕時計を見る。21:52分。未だパトランプなし。

PCの起動を待つ間、めぼしいファイルをリュックへ押し込む。どれもこれも、読み応えがありそうだった。USBを取り出して、起動したてのPCへ差し込む。ピロピロロロ。スーパーマリオのドン・チュルゲの画像を以て「HacX」にユーザーアカウントが切り替わった後、デスクトップが立ち上がった。

「これで無いなら……」ポケットを探り、マッチを掴む。ついでに中身が『透明』な醤油注しも。「……いや最低だわ私……」

「おい女——」

眩しかった。寝耳に水だ。懐中電灯で照らされていた。ハッと振り向き、目をキュッと細める。青い服を着ていた。警備員? まさか。今日の巡回は終わっている。

「——好きな方を選んでいいぞ。海中散歩かぁ? それとも死ぬまで働くか」

やはりバレた。そう思った。おそらく3階を潰し終えた時だ。不穏な気配を察知したはいいものの、回線ルーターを壊すのが遅かった。彼が一人でココへ来ているのは、只の間抜けか自信家だろう。

「……やっぱり、そう。答えはこれ。『放置しといて』」
「そーゆー頼みはムショでしやがれッ。ここは俺たちの『ナワバリ』なんだよ。次の質問だ。どこのモンだテメー」

言葉からして後者だった。
カチコミに来た鉄砲玉を取り押さえるには、武術を学んだ人間一人でいい。今は拳銃も使いにくい。拳なら、アシはつかない。

「答えたところで敵が増えるだけ。……今のところ……あなたの他に、いないけど」
「度胸あるんじゃあねえかァ……アァ!?」

言葉を掴んで突き放す様に。彼女による暴力があった。それ以上の質疑は無かった。
コンマ数秒の判断だった。女は腕の遠心力を利用してフェイントをかけ、侠客のズボンの先をつまんで引っ掛けたのだ。
「——な……」なすすべなく転倒。彼はアドレナリン放出による興奮より先に、恐怖で背筋が凍った。
理解ができない。
マウントポジションを取られていた。背の低い女に。それも、一瞬のうちに。

「……お、おい。何もさ、こう乱暴にしなくてもいいだろ?」
「事件を追ってる。ほんの小さな事件。今はただそれだけ」
「何かは知んけどよ、『事件』より有名になる気かぁッ!?」
即座に答えた。

「そういう気、無い」

彼は女が底知れない化け物に見えてきた。というか、意識の外にあった事を炭酸の泡のように思い出す。

「ひ……人殺し……ここの連中……殺した……」
夜の闇に溶け込む彼女の眼の色は、今、彼にとって死神の眼窩より暗い。女は不気味に口を動かす。

「復讐はまだ終わってない。彼らの分が。だけど私はあなたより、弱い。理屈も、ない——」目の前には黒い金属。トンカチだ。「おい待て何でも話す……」それが彼女の得物。持ち歩いている武器の一つ。「——ただ……悪いのは、私でいい」

影から影へ。

【wench's sketch:marginal girl jet black】

《——速報です。2時間ほど前、西区にある牛見保険センターにて、男性17人の死体が見つかりました。被害者は頭頂部を鈍器のようなもので殴られており……》

「物騒ねえ、そう思わない? 緒舟ちゃん?」
番台に話しかけられて、彼女は飲んでいたHI-Cオレンヂを気管支へ入れかけた。

「え……はい」
「アタシもね、そんなに後は長くないけど……なんでこんなこと起こるのって思っちゃうわけね。にしても皆殺しって……余程恨みがあったのかね?」
二人はテレビに視線を移した。更衣所の高い所に埃まみれで置いてあるから、番台は首を伸ばしていた。

《……「今入ってきた情報ですと、金品が漁られた形跡はないようですッ。同様の事件が相次いでいることからッ……」》

番台は向き直る。
「きィーっと、保健センターならお金あるって乗り込んだけど、見当が外れたんじゃない? 緒舟ちゃんはどう思うわけ?」
「……たぶん。犯人は、疲れてるんだ、と思います……これで全部解決したら楽なのに」

これは真意だ。
ここにいる自分は、人を殺して、汚れた手指を石鹸で洗ったあとだった。
のうのうと湯船に浸かって両腕に付けた傷を眺めたあとだった。

「解決、ねェ。早く捕まってくれると良いけど……前に言ってたからさ、聞くけどさ、アンタ、探偵なんでしょ? こういう人間は放っとくわけ?」
「いずれは。でも今じゃあない。今はそう……抱えてる依頼が、あるから」

いくら体を清めても、一度汚れた自分の手指はドス黒いまま変わらない。細く白い指先とはいえ。

「……その依頼、どこまで進んでるの?」
「守秘義務があるから……」

番頭は片えくぼを作った。
「全然わからない訳ねー。お婆ちゃん長生きしてるから、ヨォーっくわかるんだよ。何年番台やってると思うんだい」
老婆はそう言って新聞のスクラップや週刊誌の切り抜きを彼女に渡す。緒舟は戸惑いながらも、受け取った。

「……これは?」
「こいつァ、アタシからの好意だよ。いつも来てくれてるだろ? 仕事頑張ってくれよ!ってね!」
どれもゴシップと呼ぶのに等しい代物だった。緒舟は微笑み返す。とっさに。
「……あんたがさぁ、笑うなんて珍しいじゃないかぃ?」
「明日も、来る」
絞り出すように言った。小銭をトレイに置く。
「もう帰りかい……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」

引き戸を素早く開けて、閉める。ふと横を向く。星が掴めぬほどの、曇り空。高くそびえる大中央ツインタワービルはまだ明るい。 

◇◇◇

整理整頓は苦手だった。質屋のシャッターにもたれて、冷えたコンクリートの上に座っても、肝心の紙が出てこない。さっき、奪取した紙のことだ。いったいどこに。彼女のリュックは取っ散らかっている。
もちろん、彼女の頭も、ごちゃごちゃに絡まっている。埒が明かない。
ポケットに入れっぱなしのVAPEを口に付ける。ジジジ、と音を立て、熱いミントの蒸気が口に流れ込んだ。
「すぅ……ぱ……ぁ……すう……はァ……」
一気に吐き出す。冷静になるおまじないだ。
「……えーと……何の、調査だっけ……」

画面がバリバリに割れているiPhone4を取り出し、メモ帳アプリを開く。

『やること』7/21/201X
1.死体を辿る。
2.何人も死んでいる。
3.殺したやつを見つけ出す。
4.死体の正体は町の大物。社長→区長の順番で死んでいる。
5.死体装飾はないが、凶器が突きたてられたままだ。
6.とにかく、殺したのは誰か。組織的?
7.とりあえず、対立組織からあぶりだす。3個潰した。

無機質な文字列だと思った。緒舟は笑った。えくぼを作るたび、吐ききっていない蒸気が口から洩れる。

しとしと、雨が降り始めた。

ぼおっと、高架を見る。自分を見下ろす都市の大動脈。エンジンの音、そしてビルの袖看板。オカルトのような意味を見出すこともできない。視線を落とす。なにもわからない。メモは自分で書いたのに。

「疲れてる……。久しぶりに、寝る?」

頭の動きを止めたかった。
だけど、だいたい、思い出したこと。自分は殺人事件の調査をしている。
それは殺害予告も立てられず、ある日突然死ぬような事件。誰の依頼でもなく、自分が勝手に始めた調査だ。考えても考えても思考は煮え切らず、蛍光灯と、時々通る車のヘッドライトを頼りにさっきおばちゃんがくれたスクラップを手に取った。ぎゅうと丸くなって、読む。

**『「夜中にきらりと光るのは…」殺戮台風上昇、狂気の連鎖は止まらない』
——『〈ドキュメント・青いハンマーを追って・27〉またしても八区都市でトンカチ殺人……謎のヒットマン、そのルーツとは?』——
——『抗争対立浮き彫りに ついに全面戦争か』—— **

「もういい」

だいたい、こんな調子だった。ただ一つ分かっているのは、最近死んだ街の顔、それらは自分が殺したわけじゃない。それだけは、明らかだ。殺るのは自分と同じ、人の顔した化け物だけ。欲に塗れてなんでもやれる阿呆だけ。

だから何も、街の大物を恨むことなどなかった。よく知られていることだが八区都市(メガエイツ)の経済と政治の世界に対して、闇の秩序を受け持つ組織は総じて仲が悪い。常日頃から氷のような緊張感がある。だから当初彼女は単に暗殺事件だと考えた。
おかしい、と気がついたのは3人目が死んでからである。

「……こんなところで考えても、解決するわけないんだけど……」

ぼやいた。夜に溶け込む青みがかった黒い髪をまたわしゃわしゃとかき乱す。普段ならもう一度、「尋問」に向かうのに。でも今日は、自分のバイク(盗品)を取りに戻るのが面倒だった。早い話が疲れていた。丁度銭湯で喋ったように。だんだんとまどろんでいく。ジャケットに包まったまま、顔を下に落とす。

「……なあ」
声を聞いて、とっさに見上げた先には男がいた。警察官ではなかった。黒いスーツを着ていて、ソフトリーゼントの男だった。あとは脇にバックを抱えている。手にまだ新しいビニール傘を持っている。残業帰りだろうか。
緒舟は言った。
「……よほどのモノ好き? 補導警官も、見習うべきだね」
知らない男だった。緒舟は言葉を返すにも、一言一言がゆっくりで、何か挟まったみたいにしか喋れないのに、毒が混じる。可愛げがないと自分でも思う。男は微笑んだ。

「ああ。モノ好きだ。風邪を引いたうえでマワされそうな女に声かけるくらいにはモノ好きだ」

「べつに、私は弱くないから。ナメられる、ほどには」

「この辺は危ないから言ってるぞ。丁度、左、見てみろ」

ずっと奥にはパトカーが何台も止まっている。ビルをあわただしく、警察官が動く。規制線の手前には、報道バンもたくさん止まっている。

「知らねえのか? さっきあのビルでカチコミがあったみたいなんだ。有名な話だけどさ、このあたりは治安最悪。警察官なんぞ、数枚の万札で買えるんだ。そしてアンタみたいな女は無料さ。やりたい放題。わかるか?」

「……ええ。その事件なら、知ってる。見当違いだった、らしいね」
「見当違い?」

男は彼女の目に疑問を投げた。

「探偵、をね、少し。だから……ハンザイシンリガクとかは、わかるんだ」

男の方は若干困惑していた。おいおい。とんでもない、「不思議ちゃん」なのかよ。

「探偵、か。つまり……詳しいのか? ミステリー」
「小説は、最近、読んでない」
「じゃあテレビドラマはどうだ。『おかしな刑事』とか」
「テレビは、見ない」
「あの刑事ドラマを知らない奴がいるのか。ちょっと、びっくりしてるぞ。まあ俺は好きでもないが」
「仕事してる時間と、被る」
「……へえ。それならホントに探偵か。どうでもいいけどな。あれこれを……自分の足で……調べたのか」
「たぶん。一人で、全部喋ったから、わたしが喋る必要はなくなったね」

男の方は彼女がわからなかった。だが、何となく雨に打たれ、子犬のように放っておけば死にそうな雰囲気は、何とか理解しようとするモチベーションにつながる。
「嘘、ついていないんだな」
「下手、だから」
「家、ないんだろ?」
「……うん」

男は呆れたそぶりを見せたあと、もう一度彼女を見た。手や顔は人形のように硬く滑らかな肌の色をしているのに、どこかやりきれない剣呑な目つきだった。つまりは、気まぐれを呼び起こされた。

「ナンパしようって気はないんだ。……家に泊まってかないか? 汚いし、狭いが——」
女は意表を突かれたらしかった。目元が微かに表情を見せていた。
「——嫌ならいいんだ。だが……俺に人助けをさせてくれ」

この時初めて、しっかり男と目を合わせていた。

「……甘えさせてもらっても、いいかな」

【つづく】

コインいっこいれる