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あの日、あの街で、彼女は。~神谷町駅~

出世街道から逸れたくなかったのに。

灼熱の太陽が照りつけ、アスファルトにくっきりとした黒い影をつくる。青一色に塗られた空と、建ち並ぶ高層ビルに挟まれ、窮屈な一室に閉じ込められたようだ。

暑い、暑い、暑い。連日の猛暑に行き場のない気持ちがため息に変わる。名前を聞いただけではピンとこなかった神谷町駅は、千代田区寄りの港区にある。電車は東京メトロ日比谷線しか通っていない。

暑さを凌ぐために、キンキンに冷えたコンビニに寄り道をする。ポカリスエットを買った後、店内を一周しようとしたところで、出入口が二箇所あることに気がついた。しかも訪問先の方角に向かってショートカットできる。

手応えのない訪問を終えて、無意識にため息が漏れる。たった一度で諦めるわけにはいかない。今後のアプローチをどうしようかと考えながら、歩き続ける。

行きは素通りした愛宕神社の鳥居の前で立ち止まり、勾配が急な石段を見上げる。平日の昼間のせいか人の気配もあまりなく、都心の喧騒も忘れさせる佇まいに、どこか異世界に繋がってしまうような錯覚に陥る。

「また今度お参りに行ってみよう」と思い、そのまま駅に戻る。なにもこんな真夏に汗水垂らしながら石段を登らなくてもいいや。

大通りまで戻ってきたところで、日乃屋カレーの深い緑色の看板と、スーツ姿で並ぶ人が見えた。なぜかビビッと惹かれて、最後尾に並んでいた。

1階はカウンター席のみの狭い店内に案内され、温玉が乗った日乃屋カレーの食券を買って待つ。おいしかったことは確かで、辛かった記憶はないのに、汗だくの額をハンカチで拭ったことだけは覚えている。

満腹で店を後にし、次の訪問まで作業するためのカフェを探して歩き始める。Googleマップに表示された東京タワーの文字を見て、思わずキョロキョロ見渡してしまう。わたあめのような雲が広がり始めた空に、赤と白の先端が見えた。

「憧れの東京で働いている」という彼女のプライドの高さと重なった。残業しながらバリバリ働いて、憧れの先輩みたいに早く昇格したかった。やっと手にした「第一志望」の切符で、勝ち組に仲間入りしたかった。

その後何度も神谷町駅を訪れたのに、愛宕神社に参拝することはなかった。あの日、天を仰ぐように見上げた石段は「出世の石段」と呼ばれている(と知ったのは、数年後のこと)。

出世の石段を登っていたら人生は変わっていたのだろうか、変えられない過去を悔いる彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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