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あの日、あの街で、彼女は。〜竹橋駅〜

誰と過ごすかより、どこで過ごすか。

主張の激しかった真夏の太陽が控えめになり、駆け足で空の色が染まっていた頃、上司と一緒に新規のお客さん先への訪問が決まった。今すぐ発注したいとオファーの問い合わせがきたこと、数年前にクレームが発生していたこと、それぞれの部署は別々だったこと。少しややこしい企業を、彼女に引き継ぐことを決めた上司の真意は、定かではない。

竹橋駅は、東京メトロ東西線が通っていて大手町駅の隣だ。皇居の敷地の外周をなぞるように地下鉄が走っている。この企業の訪問のために初めて知った駅で、降り立ったのも初めてだった。

同行するとき、オフィスから一緒に向かう場合と、お客さん先の最寄駅やビル下で待ち合わせる場合がある。この日は後者で、しかもビル下だった。初めてだから時間に余裕を持ってオフィスを出たのに、乗り換え駅で迷って電車を1本逃し、竹橋駅からもGoogleマップに翻弄され道に迷った。

「ほんとに、ほんとに、すみません!」上司と同行かつ初訪問のため、いつもよりピシッとしたストライプ柄のネイビースーツを着て、履き慣れた9cmヒールでドタバタと駆け寄る。ハーフアップに結んでいるもののアホ毛がひょこっと顔を出し、ふんわり巻いた前髪も汗でぺたっと張りついている。

商談中もひとり汗が止まらない彼女、タオル地のハンカチを握って、合間を縫っては顔に押しつける。汗っかきの体質を恨む。いや、方向音痴を恨むべきか。そもそもこの暑さの中スーツを着る意味はあるのか…関係ないことに思考が飛びかけて、いやいや…と冷静にブレーキをかける。バレていない、セーフだ。

心配していた過去のクレームも一切関係なく、順調に進みそうだ。晴れやかな気持ちでビルを出て、息を吸い込む。汗でしっとりとした肌を、扇風機を弱で回してるような風がぬるっと撫でていく。

帰りは、竹橋駅ではなく御茶ノ水駅から電車に乗ろうと、上司に言われるがままに歩く。たしかに、御茶ノ水駅からオフィスに帰る方が、電車に乗ってる時間も乗換回数も少ない。

少しずつ変化する街並みをきょろきょろ見渡しながら、大通り沿いをひたすら真っすぐに進む。御茶ノ水駅に近づき、明治大学を目の前にして、都心のビルに紛れた建物がキャンパスなのかと衝撃を受けた。キリスト教系の建造物に囲まれた大学生活を過ごしてきた彼女にとって、カルチャーショックに匹敵する。

御茶ノ水駅に着く頃には、また汗が滲み始めていた。オフィスで話すときよりも、ちょっぴり本音の割合が増えるのはなぜだろうか。

名残惜しくない夏、歩きながら込み入った話をする時間が好きだった彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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