なりたい姿

「5年後のあなたは、なにしていると思う?もしくは、なにをしていたい?」

「10年後のなりたい姿はどんなイメージ?」

この類の質問が苦手だ。
5年後、10年後どころか、1年後すらイメージするのは難しい。
しかし、社会人であると、年に数回この質問に出合う。それは他者からの質問であったり、時には自問していたり。

トレーニングである程度、イメージできるようになるのか…とも思うが、そうでもないような気がする。

登山家であるとすれば、登る山を決め、その頂上を目指す。
人生は山なのか?山頂はあるのか?

道はある。という感覚は持っている。
なので、道の先を見据えて、分かれ道が来たら選択をし、その道の先の上空に見える空を見て、歩くその先に自分が心地よい場所や時間、空間があるかどうか、または試練が待っていたとしても進むべき道なのかを判断して、進む道を選び、歩く速度を調整する。

その道が、山頂へ向かうのか、または谷底へ下りる道なのか、ぐるっと回って同じ場所に戻ってくる道なのか…

目指す山頂(または目的地)が見えているべきという考えや価値観が「正しい」と感じてきた。また、今もそうなのかもしれないと思う。
一方で、目的地が見えていなくても、道の先とその上の空を見て、周りの景色を見て、それが自分の進みたい道なのか、進みたい道はそもそもどの道なのか、を考えながら歩くのが人生であるような気がしている。

歩いていく中で、自分の歩きやすい道、ワクワクする道、振り返って眺めたい道、足早に通り過ぎたい道を経験していくと、脚力や持久力、知恵や知識がついて、歩き方がうまくなったり、苦手そうな道もスムーズに歩けたり、道の先にある面白そうな場所や危険な場所を察知して、分かれ道での選択眼が上達したりする。その工程が人生なのではないか、なんて思ったりする。

人生に最終地点はなく、歩き続けて辿り着いた所が目的地なのだと、後からわかるんじゃないのかな。

だからと言って、なりたい姿を持っている人がおかしいとは思わないし、むしろそのイメージができる能力がすごいと思う。
ただ、自分の生き方として、なりたい姿や目的地をイメージするのではなく、常に未来を見ながら、その瞬間の最適解を選びながら歩くことが、自分でも見えていない山頂や目的地に導いてくれるのではないか、と捉えている。

5年後、10年後のイメージが明確な人の脳の中を覗けたら覗きたい。
10年後には、そんな能力を持った自分でいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?