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未亡人日記59●サン・レミに置いてきたもの


 「後期印象派のゴッホの足跡を訪ねる旅」に結果としてなったのは、アルルを訪ねたからである。私はビゼーが好きで、ビゼーと言えば「アルルの女」である。ファランドールやメヌエット。ファランドールは、大学生の時、退官前最後の授業で教授(フランス人)が、フランス語の歌詞で歌ったことをいつも思い出す。あれって歌詞があるんだ? とその時思った驚きと共に。フルートの出だしで有名なメヌエットの方は、でも実は本来「アルルの女」の中の曲ではない、という知識をフランスに行く前に得ていた。だからどうだという話でごめんなさい。

 アルルの円形劇場は良かった。同じくビゼーのオペラ「カルメン」のラストの闘牛場のシーンはこういうとこなんだろうなあと思いながら、古代ローマに連なる遺跡を、手のひら全部で味わうように触ってみたりした。ひんやりした石の感触を、私は覚えていたいと思った。円形劇場の石の座席にはナンバーが黒い油性マジックのようなもので書いてある。今でも普通に使用されているのがすごい。

 ゴッホの「夜のカフェテラス」のカフェの前まで行ったら、閉まっていたが、その前で写真を撮った。ゴッホはアルルで傑作をたくさん描いたのに、実はアルルには1枚も彼の絵がない。それはいかがなものか、ということでゴッホ財団というのが発足して、運営の美術館がカフェからすぐのところにある。コレクションはないが、世界中からゴッホの絵が貸し出されるそうで、ちょうと2枚の絵がオランダと、もう一つどこからか来ていた。その2枚だけセキュリティが厳しくて、私が絵のブースに入るとセキュリティのおじさんも入ってきた。2枚の絵を私とおじさんは二人じめにして見た。

「東京から来ました」と私は言った。この絵はどこからですか? おじさんの話からわかったのがオランダで、もう一つは聞き取れなかった。多分イスラエルかなあ。わかったふりをして私は話をつづけている。

「パリのオルセー美術館のゴッホ展に、ここにくる前に行ってきましたよ」と私は言う。最晩年の街でのゴッホの特集だった。そのオーベル・シュル・オワーズで、ゴッホは自らを銃で撃った。

 美術館のショップで買い物が楽しいのは全世界共通で、でも「ちょっと高いいなあ」と思うのも全世界共通なんだろう。日本円ならいくら、と計算しながら、ゴッホの「夜のカフェテラス」が表紙になっているノートを買った。それからさっき実物を見た絵の絵葉書。ノートは絵が上手い次男へのお土産のつもり。私が買ったゴッホの絵はがき(気に入った方)は、風景画で、メガネドラックで視力検査をするときにもう何十年も同じ写真を除き穴から見せられるのだが、そんな感じの緑と赤の色彩だった。ショップから1階へ下る階段の途中に、うちの玄関に飾っている北斎の「大橋」と同じ物があって、ゴッホって私と趣味が一緒だ、と思ったりした。

 ガイドが次に案内してくれたのが「ホテル」で、ゴッホが入院していた病院だった。ホテル、とはホスピタルがもと、なのは私も知っていた。中庭の回廊は、現在カフェやショップになっている。ゴッホはアルルでは耳を切った。
 その後ラベンダーのショップに寄ったり、日本人の有名パティシエの店に寄ったりして、お昼の時間がギリギリになりながら、予約を入れてもらった有名ホテルのブラッスリーに向かう。

 最初は予約でいっぱいと断られたが、ガイドは「一人だから何とか入れて」と粘ってくれて、14時ならいい、と言われたのだ。ほぼラストオーダーの時間である。

 一つ星のレストランに行きたい、とガイドには伝えていた。
 最初は「ボーマニエール」に行きたい、と大それたことを考えていて、でもネットで予約を見たら私が観光に行く日のランチは満席だった。何かのレセプションが入っていたのだろうか。冷静に考えたら、そんな金額を出せないし、一人でそんな三ツ星でランチをするのもどうなんだろう? だからこれでよかった。ランチにはガイドもさそったのだが愛妻弁当を持ってきていると言って丁寧にお断りされた。

 私は一人で席につき、昼のお得メニューを注文し、野菜てんこ盛りの前菜に合わせてプロバンス地方のだという白いワインとを飲み、メインの羊に合わせて赤ワインをそれぞれグラスで飲んだ。羊の焼き方を長身の女性マネージャーに聞かれたので「ビャンキュイエ」(よく焼く)という言葉が頭の中に湧いてきたのでそう言ったが、後で友人に「羊はどっちかっていうとロゼっぽく仕上げるんだよ」と言われてなるほど、と思った。皿は量があり、美味しかった。5切れぐらいものっていたかも。付け合わせはレンズ豆のようにも感じるし、雑穀かもしれない。これも私の好みだった。

「日本から来ました。東京から」というと、スタジエの眼鏡男子が「僕は日本が好きです、日本の車が。トヨタ、ホンダ・・・」と言うので「運転が好きなの?」と聞いたら「まだ免許ありません。16歳です」と言われた。パリで行ったレストランでも小柄な、どう見てもまだ10代前半という男の子が働いていたので歳を聞いたら14歳と言っていたなあ、と思いだす。

 デザートを食べるとさらに時間がかかるだろうし、実際おなかがいっぱいすぎたので、コーヒーだけ飲もうと思って眼鏡男子に頼むと、私の注文が変だったので、英語を話す別の女性がやってきた。どうも、2つのものを同時に頼んだ感じになったらしい。訂正して、エスプレッソダブルを飲んだ。

 客の服装からは、そんなに畏まっていない感じがしたのはビストロだったからだろう。14時に入って、15時過ぎにはお会計をした。一人だからそんなもんである。実際15時にはほぼ客は出て行っていた。

南仏の山の中のホテルのバスルームで手を洗う。

遠くまで来たなあ、と思う。


 途中、「美しい村」レ・ボーを通って、峠の撮影ポイントで写真を撮り、サン・レミの街に着いた時はもう陽が傾きかけていた。

 ゴッホが最後に過ごした修道院に行く。チケットを買うところまでをガイドに見送られ、背の高い門を入って、まずはまっすぐ礼拝堂に向かって歩いていく。湿った土の匂い。さっきの病院は街中にあったのだけれど、ここは郊外の風が吹いている。礼拝堂に入ると、クリスマスの飾り付けをしているおじさんがいたので「ボンジュール」と私は挨拶をする。
 しんとした食堂。
 その後、人のいない回廊をゆっくり回って、ゴッホの入院していた部屋に上がる。ここにいたんだなあ。

 窓から見える畑に、その後出てみる。植えられている植物がある。何かはわからないけれど、畝が綺麗になっているので、何か食べられるものなんだろうか。柿に見える木がある。実も柿に見える。ゴッホはこの風景を見ていたんだろうか。しんとしているこの風景を見ながら絵を描いたのだろうか。

 風が寂しい。
 夕暮れに傾いた日の光、静かな風景だけれど訴えかけてくる物が多かった。逝ってしまった画家が残した、何というかこの静かな寂しさに心を掴まれた。
 遠くまで、わたしは寂しさを味わうために一人で旅に来たのだろうか。でもそれもいいね、と思い、出口への道にある、ゴッホの立像に自分の顔が半分だけ映るようにしてツーショット記念写真を撮った。少し離れたところで聞こえていたスペイン語話者のおばさん2人組が、私のその行為を少し微笑しながら見ていた。

 ガイドの懇意だというショコラティエに寄って、すこしお土産を買った。

「チョコに文字が書いてあって、それぞれアルファベットごとに味が違うのと、メッセージを作れるので人気なんですよ」というので、職場へのお土産に一つ買ってみようと思い、少し考えて、夫の名前を入れたものをもうひとつ買って家のお土産にしようと思った。16文字になかなか収まらない。紙に、「Je t'aime (ジュテーム)」の文字に加えて、夫の名前を書き足して示した。

「私の夫の名前なの」とお店のマダムにいうと頷いて、後で、二つのうち、わかるようにこちらに名前を入れておいたわよ、と言ってくれた。

 私はマダムの肩に触れ、「今から悲しい話をするけど」と始めて、「夫は5年前になくなったの」と言った。そうしたら私の目の奥から思わず水が出てきて困った。5年前、という響きがもう遠い遠い昔のことのように私には聞こえて、それが悲しい。マダムはちょっとハッとしたような顔をしたが、特に何も言わなかった。

 夕暮れのサン・レミの街に、私は夫の何かを置いてきた、と思った。
 夫の名前を発音したことが嬉しいのか悲しいのかよくわからないが、私のその言葉が空気の中で音を伴って発せられたことで、夫をサン・レミまで連れてきた、と思った。

 ガイドには、恥ずかしいのでこのやりとりは話さなかった。

「この街の有名人の邸宅ですよ、誰だと思いますか?」と言って、彼が最後に連れて行ってくれたのは、ノストラダムスの生家だった。

 広くはない、でも歴史の刻まれた通りに、彼の生没年を示すプレートと肖像画がかかっていて、私は写真を撮った。ノストラダムスといえば、ある世代までは共有してもらえる感覚がある。1999年7の月に空から恐怖の大王が降りてくるので、自分はその時死んでしまうのだ、という恐怖と諦念に思春期の大事な何かを毀損された、そういう日本の小学生は多かったろう。おそらく夫もそう思っていたはずだ。

 恐怖の大王が来たかどうかわからないけれどでも、私たちは1999年を生き延びて、その後夫は亡くなって、そして今私はサン・レミまでたどり着いたのだなあと思った。


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