中学受験の入試国語の分析 #3 【桜蔭学園 2020年度 大問 1」】

 国語の入試問題の分析の「#3」です。今回は桜蔭学園の入試問題を取り扱います。個人的には、中学受験の国語の入試問題の中で、一番美しい問題を作る学校だと思っています。その中でも、今年度の入試問題は白眉です。

 さて、今回の大問1で扱われている文章は、角幡唯介氏の『エベレストには登らない』です。

 この問題の何が素晴らしいかと申しますと、そもそもこの文章を2020年度の入試問題に採用したところです。
 この文章は、角幡氏が『BE-PAL』に連載していたエッセイです。『エベレストには登らない』は、そのエッセイを集めた単行本になります。不思議なのは、その単行本の発売日が2019/12/4であるところです。
 さすがに、直前の12月の段階では入試問題は出来上がっていると思います。そうなるとこの問題は、桜蔭の先生が雑誌を読んでいる時に「あぁ、良いエッセイだわ~、よし!これで入試問題を作ろう!」となっていることになります。
 もしかしたら、12月の段階で単行本を読み、「これは良いエッセイだ!よし、これで入試問題作っちゃおう」という具合に、ササっと作ったのかもしれません…
 いずれにせよ、何気ない雑誌記事を入試問題にしてしまうセンスでも、入試直前に発売された単行本から入試問題を作ってしまうセンスでも、こんな美しい入試問題を作れてしまう桜蔭の国語の先生のセンスには恋をするだけです。
 そんなところにも、桜蔭の教育力の高さを感じずにはいられません。

【歴史的な一題】

 さて、設問について具体的に話していきますと、この入試問題の素晴らしさは、[問四]の一題に集約されていると思います。そこでは、本文の「コペルニクス的な転回」に傍線を引き、この表現で筆者が言おうとしていることを受験生に説明させようとしています。

 「コペルニクス的転回」の理解は、比較的多くの学校の入試問題で求められていると感じます。以前に書いた頌栄女子学院の分析でも触れさせていただきました。個人的には、中学受験の国語の指導は、その期間の間に「コペルニクス的転回」を理解させることができれば、半分は終わったと言っていいでしょう。むしろ、「コペルニクス的転回」の理解が「勉強」の出発点になると考えているので、その意味で言えば、「コペルニクス的転回」を理解できれば、全ての教科において「指導」が完成したといっても過言ではないかもしれません。

 そんな中学受験定番のテーマでありながら、この問題を「歴史的」とするのは、学術用語に直接傍線を引いているところです。しかも、本文には「コペルニクス的な転回」とあるのに、設問ではわざわざ「な」を削っています。もう確信犯としか思えません。
 これは、「コペルニクス的転回」という言葉の意味を知らない子には解きがたい問題になっています。しかし、「コペルニクス的転回」なんてものは、当然小学校で習うわけではありません。文章内でも、説明している部分はありません。したがって、筆者が教養的知識として使った学術用語の理解を受験生に求めているわけです。つまり、中学受験をするのに、前提として「コペルニクス的転回」を理解させる必要があることをはっきりさせた一題になっています。それは、指導する側に、そのレベルの指導を求めていることを明確にしているのでしょう。ゆえに、この問題は、中学受験の国語の指導基準を上げる一題になっていると考えます。そのレベルに中学受験の国語の指導基準のラインを明確に引いた桜蔭の教育に対する情熱に胸が熱くなります。その意味で、「歴史的な一題」とさせていただきました。

【プライドが伝わる一題】

 [問三]では、筆者が「エベレストには登らない」という題名にどんな想いを込めたかの説明を求められています。ここでは、カントの「自由」についての理解を求められていると考えます。

 「コペルニクス的転回」を理解していれば、「エベレスト」という概念とその存在自体の関係が恣意的なものでしかないことがわかります。つまり、「エベレスト」は、「エベレスト」であって「エベレスト」ではないのです。

 カントの道徳哲学によれば、いついかなるときも当てはまる普遍妥当的な行為のみが、道徳的行為と見なされています。無条件で行う行為を「定言命法」として、条件付きで行う行為を「仮言命法」と区別しています。

 「エベレスト」という概念は、あくまで人間の認識を言語化したものに過ぎません。そして、その認識には「世界一高い山」という概念が付随しています。つまり、「エベレストに登る」ということには、同時に「世界一高い山に登った」という社会的名声が、嫌でも付いてきてしまうのです。
 しかし、カントの道徳哲学に従えば、真の意味で「登山」をするためには、その社会的名声を目的にしてはなりません。「エベレスト」だから登るのではなく、「山があるから、登る」でなければならないのです。その山に登る動機が社会的名声を手に入れようというものになれば、それは既に経済的行為となり、決して「登山」にならないのです。

 かつて、イギリスの登山家ジョージ・マロリーがエベレストに登る動機を聞かれたとき、「Because it's there.」と答えたそうです。それは「そこに山があるから」という日本語訳を当てられていましたが、Wikipediaを見ると誤訳とされています。
 しかし、個人的な感想を述べれば、翻訳した人間はマロリーの気持ちを理解した上で「そこに山があるから」という翻訳したように思えます。つまり、「エベレストだから、登るのではない」「登山家は、山があれば登るんだ」という純粋な思いを翻訳したのではないんでしょうか。この角幡氏の「エベレストには登らない」という題名にも、同様の想いが込められているように思われます。

 それは、同時に桜蔭の想いを代弁しているようにも感じます。「桜蔭」もまた、「桜蔭」であって「桜蔭」ではないのです。学習塾業界が生み出した「御三家」というキャッチコピーも、各社の模試で算出された偏差値での「女子校最難関」の評価も関係なく、ただ「桜蔭」としてあり続けようとする気高さが、この問題には感じられます。それは、合格することで手に入れてしまう社会的名声を超越したところで、ただ勤勉にあり続けることの大切さを説くものなのでしょう。それが「エベレストには登らない」という言葉に隠されているように思います。

 実にオシャレな問題ではないでしょうか。その茶目っ気が魅力である学校だと思います。

 本当は、[問五]についても書こうと思っていたのですが、桜蔭の国語の分析をするのは、一題一題パワーが必要です。その文章を練り上げるのに、丸一日分のパワーを奪われます。ゆえに、二題の分析で終わらせていただきます。

 ただ、これまで合格した子の傾向を考えるに、社会的名声を超越したところで「勤勉」とは何かを理解できている子は、しっかりと見つけてもらえているように感じます。桜蔭の国語の記述の採点には、そういう包容力を感じます。その包容力を信じて記述することができれば、見つけてもらえると思います。その意味で、桜蔭の分析は[問三]の問題の分析だけで終わらせて良かったかもしれません。あとは、蛇足のようなものです。それくらい、桜蔭の国語の入試問題には、温かさを感じます。

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