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中学受験の結果の受け止め方

 受験が終わって1か月程度が経ちました。教室は、受験の余韻も収まり、すでに次の学年の受験が始まっております。

 仕事を始めた頃は、その年の受験結果を春期講習くらいまでは引きずっていました。大手学習塾にいれば、密に関わった子でも50人程度、軽い関わり方の子も含めれば、100人以上の子の受験結果と毎年向き合うことになります。そうなれば、当然全員が良い結果で終わるということはなく、必ず悪い受験結果になってしまった子がいるものです。そういう結果に、一か月以上落ち込んでいたものです。

 この仕事をしていると、良い結果で終わった子は、わりと早く忘れられるものです。それよりも、悪い結果になってしまった子の方が覚えているもので、時々思い出すのは悪い結果になってしまった子になるものです。その意味で、塾講師という仕事をしている人間で脛に疵の無い人間はいないでしょう。脛の疵に気付けない講師はいると思いますが…

 そんな時代を過ごしながらも、歳を取るにつれて子供たちの受験結果に感情を左右されることも無くなりつつあります。そのために、わりと早い段階で次の学年の受験に気持ちを向けることができるようになりました。
 それは、他人である塾講師がその子を良い悪いと評価して一喜一憂することが、その子の人生に対して失礼なのではないかと思うようになったからでもあります。その子が自分の人生をどのように評価するかは自由ですし、それが唯一の真実だと思います。その真実以外は、何の価値もないと思うようになってから、子供たちの受験結果に感情が左右される割合は少なくなりました。
 と言いながらも、つい最近、10年前の教え子と食事に行ったときに、酔っ払って「10年前は、指導者として未熟で申し訳なかった」と言い続けていたのですが(笑)

 さて、そんな考え方とは別に、最近考えていることがあります。自分では評価が難しく、考え方によっては「言い訳」と捉えられても仕方ないようなことです。ただ、自分の人生においては、重要だったのではないかと思っています。

 それは、「失敗をした経験が、その後の自分の人生の良いものにするための糧となる」という考え方です。人間は、物事を相対的に認識する生き物です。そのため、辛い経験をすることで、幸せと感じられることの幅だったり、相手の辛さに共感できる優しさの幅が広がるのではないかと考えています。ゆえに、「受験に失敗した」という経験も、将来の幸せの糧になるのではないかと。
 これまでの教え子でも、第一志望に合格できずに第二志望以下の学校に進学した子の中に、その悲しい結果をしっかりと受け止めて、前向きに成長していった子たちが多いです。そういう子たちの姿を見ていると、失敗にもまた大切な価値であるような気がしています。

 受験の結果を長い時間をかけて消化し、自分の人生を昇華させてくれればと考えることがあります。私たちの教室では、どんな結果であっても、その経験を自分の人生を良いものにしていける子を育てたいと思っています。もちろん、良い結果に導くことができて、それをさらに昇華できれば理想的なのかもしれません。

 それでも思うような結果にならなかった子たちに対して、SAMの「SLOW」が届くことを願っています。

調子がいいふりして spend my life まだゆっくりでもいい
Slowに流れるTimeとなけなしのLikeを
調子がいいふりしてspend my life まだゆっくりでもいい
分からないを怖いじゃなくて分からないを楽しむことにしよう

「SLOW」SAM


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