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家父長文化と個人主義ー1


 家父長文化とは、「いちばん強い男に権威と力をあたえて、その場の最後の一人まで守らせる義務を負わせる」、という文化である。これは、男性文化の真骨頂のような文化だ。人間には、何がいちばん大事なのだろうか?それは、安心感である。家父長文化とは、その安心感と連帯を守ることを最重視するという、共同体主義である。


 
 人間とは、群生動物である。これを人はたいてい物理的な意味にとるのだが、そうではなく、精神的な意味においても人間とは群生動物なのだ。


 人間とは、「良き群れ」の中にいなければ、狂う生き物である。人間とは猫ではない、羊である。羊であるいじょう、単独行動は許されない。羊は、絶対に群れの中にいなければならないのだ。家父長文化とは、その「良き群れ」をつくるために欠かせない文化である。


 
 この家父長文化の対極にあるのが、個人主義である。この個人主義というのは、一言でいうのなら、弱肉強食の文化である。自由ではあるが、基本、頼りになるのは己のみという、ひじょうに殺伐とした文化である。この文化は、自由の代わりに安心感を差しだすことを要求する。自由と安心、人間にとってどちらを優先すべきかといったら、とうぜん安心である。心が休まらなければ喜びも気力も湧いてこないのだから、それは当然だろう。


 さらに個人主義は弱肉強食でもあるから、文字通り、最悪のばあい弱者は死ぬ。そして弱肉強食なのだから、とうぜん強者が利益を総取りすることにもなり、必然的にその共同体には強い不平不満がうまれる。個人主義は、群生動物である人間にはまったく向かない。


 家父長文化とは連帯をもたらす文化であり、個人主義とは支配と独占を生みだす文化である。


 読者の方々は、逆に家父長文化こそが人間の自由をうばう野蛮で抑圧的な文化だと認識していることと思う。これは、フェミニストによるプロパガンダのせいである。家父長文化とは、男性文化の最たるものだ。男性文化を滅ぼさなければ、フェミニズムで男たちを支配できないのだから、彼女たちはそう言っているだけだ。家父長文化にたいするマイナスイメージは、政治の産物でしかない。


 真実はその逆で、家父長文化が滅びてしまったからこそ、現在の日本はこんなにも殺伐としているのだ。


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 家父長文化をわかりやすく説明するために、古代中国の歴史をひも解いてみよう。古き良き時代の中国の政治は、いわば家父長文化で運営されていた。「封建制」、という名の家父長制度である。古代中国の殷、周、春秋時代までは、封建性である。ここでは周の時代を例にとってみよう。


 周は封建制というシステムを採用していた。これは、国どうしの家父長制である。当時の中国には数百の国々が存在していて、最強国が王国の周、そしてその他の数百の侯国は、候公伯子男の爵位をもつ貴族が支配していた。中国というと、最強国の王様がえげつない支配をしていたのではないかと思うのだが、この時代は違う。この時代の中国は国どうしが助け合い、家族的な連帯をつくりだしていた。


 まず、最強国の周は搾取をしない。周のその他の侯国にたいする権利は、主に2つだけだった。それは軍事収集権と裁判権のみである。外敵が中国に侵略してきたときに、侯国の軍隊に収集をかける権利。そして貴族どうしの揉め事をさばく裁判にかんする権利、これのみである。臣従している国々に対する徴税権が無いから、搾取のしようがなかった。それぞれの国は貴族たちが治め、周の王様はその国々をまとめあげるだけだった。


 (この数百の侯国が周に毎年莫大な貢物をおさめていた、という説もあります。次の春秋時代はそうでした。しかしこの記事を書くにあたって参考にした本によれば、それはどうも無かったようなので、ここでは無しとする説をとります)


 
 中国というと、ある時期からは苛政に耐えかねた農民たちが大反乱をおこし、皇帝がそれに対して大虐殺で報いる、ということが延々と続くのだが、この時代にはそれがない。まず侯国を治める貴族たちは、農民たちと文化を同じくしていて仲間意識があるから、むごい搾取はしない。さらに王国の周には徴税権がないから、搾取のしようがない。この時代までは、中国全体にに家族的な一体感があり、中国人たちはまずまず穏やかに生きていたようである。つまりこの時代までは、日本の江戸時代とほとんど同じだった。

 

 
 そして、ここからがわれわれ日本人の予想に反し、凄い。中国とは、四方八方を外敵に囲まれているしんどい大陸である。北からはモンゴル系騎馬民族が、西からはトルコ系が、チベット族が、南からは南方異民族がしょっちゅう侵攻してくる。この周の時代は、その異民族の侵入に対し、中国のすべての国が団結して戦うのだ。


 例えば、「衛」という弱小国が、モンゴル系騎馬民族に侵略されたとしよう。衛程度の弱小国では、モンゴル系騎馬民族にはまったく歯が立たない。そこで最強国の周が、その他の国々に軍隊の動員をかける。そして周が天下の諸侯を率い、そのモンゴル系騎馬民族を撃退してしまうのだ。


 さらにこんどは、「鄭」という弱小国が、南方系異民族に侵略されたとしよう。鄭もまた、南方系異民族にはかなわない。するとやはり周が天下の諸侯を率い、南方系異民族を撃退する。こうして中国は最強国の周を中心にし、すべての国が団結して異民族の侵攻を防いでいた。


 とはいえそこは中国人のこと、周はその見返りにえげつない貢物でもその弱小国に要求したのではないかと、やはり思ってしまう。しかし、それはない。弱小国を救った周に、金銭的、あるいは領土的な見返りはない。あるのはただ名誉、これのみである。周が得たのは、最強国の高貴なる義務を立派に果たしたという、名誉のみなのだ。この功績により、周の王様と人士は中国全土の民衆から絶対の尊敬をうけただろう。それのみだったのだ。


 「利と狡知の民族」である中国人が、名誉などとらしくないではないかと思ってしまうが、そうではない。これが家父長文化というものなのだ。


 
 というより、ここが家父長文化の肝である。男には、誰でも「強者の気概」というものがある。男はみな、自分を強い男だと認識し、誇りをもちたいと思うものなのだ。男とは、まわりの人々から強者であると崇められるためなら、時には命すら投げだす。名誉のためなら命すらいらない、これが、本物の男である。男を男らしさの規範で教育すれば、こういう気高い男がでてくる。そしてこの男の気質につけこめば、最強の男を秩序の守護者へと仕立てあげることができるわけだ。


 周の国は、弱小国を守ってもなんの領土的、経済的な見返りはなかった。しかし別の多大な見返りがあり、それは中国全土の民衆から崇められるという、名誉だったのだ。つまり周の男たちは、名誉という精神的宝石を得ていた。それは当時の男たちにとって、領土や金などよりもはるかに貴重なものだったのだ。そのためには、多少の犠牲などなんでもない。


 その当時の中国は、周がお父さんであり、強国は長兄、中堅国は次兄、そして、弱小国は末弟のようなものだったわけだ。父が、子を搾取するわけがない。父が、兄が、弟を守るのは当然のことだ。それは、人間としての義務だ。そしてこの人間的な連帯を、家父長文化という。


 
 当時の中国人は、この家父長文化を国全体に適用していた。家父長文化の、いわば国家版である。そしてこの家父長文化は、当時の中国に平和をもたらしていた。この時代には、後の時代のような皇帝によるむちゃくちゃな大虐殺や農民の大反乱、そして中国人どうしの国による戦争に次ぐ戦争、というものがない。家族的な連帯を共有していたから、そういう蛮行がおこらなかったのだろう。


 人間は、民族は、生まれながらに民度の高低が定まっているわけではない。その民族の民度の高低は、環境で決まる。環境が悪ければ人間も悪くなり、環境が良ければ人間も良くなる。現在、民度の低さで世界中に悪名が轟きわたっている中国人も、この時代までは見事な連帯があり、人間的な環境を作りだしていたのだ。そしてこの連帯をつくりあげた文化こそ、封建制という名の家父長文化なのだ。


 いつの時代でもそうだが、その国の秩序をつくる核になるのは、精神文化である。そして、人間社会において連帯をつくりだすには、この家父長文化なくしては不可能なのではないかと、筆者は思う。


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 この中国における封建制という名の家父長文化は、殷、周、春秋時代を経て、BC403年に終わりを告げた。戦国時代の到来である。戦国時代の幕開けは、下剋上をもって始まった。


 まず強国、晋において3人の大夫(家老)が主君を押しのけ、実権を握った。そして、晋は3つの国に分裂した。韓、魏、趙の成立である。臣下が主君を押しのけ、国をのっとる。封建制という家父長文化の否定である。そしてこの下克上を、当時名ばかりの権威に成りさがっていた周王家が公認した。下剋上という家父長文化の否定を、当時の最高権威が認めてしまったのだ。これによりとうぜん、中国全土で下剋上が横行することになった。家父長文化の完全な破壊であり、ここに、戦国時代が幕を開けた。


 戦国時代とはいわば、国という単位の個人主義である。独立し自由ではあるが、誰にも守られない。同盟を結べばその国は味方だが、そこに精神的な紐帯はなく、その同盟はしょせんは利で結ばれたものでしかないゆえに、信用ができない。自由ではあるが反面、誰にも守られず、潜在的にはすべての国が敵である。


  中国のすべて国を結ぶ、紐帯の役割をはたしていた家父長文化を破壊してしまったがゆえに、潜在的にすべての国が敵になってしまった。これが、戦国時代という国家版の個人主義である。


 
 誰にも臣従しなくていいという自由は、素晴らしい。しかしそれは反面、誰にも守られないという、重責を背負いこむということでもある。すべての国が自由だが、その自由とは、おのれの実力次第でしかない。実力がなければ、自由どころか存在することさえも許されない。それが、弱肉強食の戦国時代である。


 弱肉強食・・・これは、文字通り弱い者は強い者に滅ぼされるということだ。つまりこの言葉は、個人主義でやれば弱者は生きることすらできなくなる、ということをも意味している。


 
 BC260年ー戦国七雄の誕生

 ここで、当時の中国が7つの強国と、いくつかの弱小国にまで減少した。かつての数百の国々は、たった140年足らずで十幾つにまで激減してしまったわけだ。


 BC221年ー秦の中国統一

さらに戦国時代の幕開けから180年弱で、かつてあった数百の国々は、たった一つの国に統一された。


 殷王朝の成立はBC1046年。800年間における封建時代では、数百の国々がともに助けあい、隆盛を誇った。しかし戦国時代になるや否や、たったの180年で一つの国を除き、すべての国が滅びてしまったのだ。滅びるさいには数多くの人間が虐殺され、数多くの女性たちが強姦されたであろうことは、言うまでもない。


 かつての封建時代では、その数百の国々は支配層の貴族と農民がおなじ文化を共有し、和楽してやっていた。ここには中国史を特徴づける、大反乱や大虐殺がなかった。同じ文化の下では、人は仲良くやっていけるのだ。


 
 しかし秦の皇帝政治では、大反乱や大虐殺が頻発した。皇帝政治という個人主義、たった一人の独裁者がすべての国々、すべての農村を支配するシステムでは、権力者の暴走には歯止めがきかない。始皇帝という独裁者は、秦の国の人間以外とは、同じ文化を共有していない。ゆえにそこには親愛の情がなく、勢い残酷になってしまうというわけだ。この皇帝政治は、秦から現代の中国共産党にいたるまで続いている。


 しかしこれが、たった一人の独裁者がすべての人民を支配し、たった一つの国が文化の違うすべての国を支配する、皇帝政治というものなのだ。そしてこれが、個人主義の国家版である。


 
 家父長文化は悪であり、個人主義こそが進歩的、文明的なのだとリベラル文化人はいう。しかし国家という単位ではそれは別で、家父長文化がなければ国ごとの連帯感など生まれようがなく、逆に個人主義でやれば、強者が弱者を支配する、非人間的な文化しか生みださないようだ。


 家父長文化は、国々のあいだに家族的な連帯感をもたらす。

 個人主義は、国々のあいだに非人間的な支配関係をもたらす。


 しかしこの家父長文化と個人主義の関係は、じつは国家だけでなく、個人においても同様なのである。



 続編に続きます。


 :この古代中国史に関する見解は、大才人、石平氏の「新中国史」を参考にしました。機知に富んだとても面白い本なので、良かったらみなさんも読んでみてください。


 

 


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