マンゴーとアボカド

 お祖母ちゃんは、アボカドを見ては「マンゴー」とよぶ。私は、もう慣れたもので、何も疑問に思っていない顔のお祖母ちゃんに「マンゴー?これ、マンゴーなん?」と(たぶん)意地悪な顔をしておちょくる。そんな空気を読んだお祖母ちゃんは、「あれ?ちごた(違った)??(関西弁)」と苦笑いしつつ、「難しい名前は覚えられん」というまでが、形式美である。

 

 当初、このアボカドとマンゴーの言い間違えには、会話が混乱した。回転寿司屋に行った席で、お祖母ちゃんはしきりにメニューを見ながら「時代やなぁ、珍しい寿司がある!」と繰り返すのだ。「どんな珍しいのある?」と私が尋ねたら、得意げな顔で「マンゴーやって」と答える。正直、夫も私も(゜Д゜)(゜Д゜)ポカーンである。マンゴーパフェならありそうだが、さすがにメニュー表のネタに「マンゴー」はない。たぶん、その時の私は3回以上「え?マンゴー?どこにマンゴー?」と言い続けたと思う。ついにボケたかと心配した。ただ、同じメニュー表を見て、彼女の指さすものを見たら寿司ネタは緑鮮やかなアボカドだった。

 ただただ納得。いろいろ話をすりあわせると、確かに彼女の認識的は共通点がある。

①種が大きくて食べるところが少ない

②最近身近になってきたカタカナの名前

③食感も味も嫌い

④楕円に丸い

⑤あったかい地域原産

そういう共通のイメージから、何かの拍子に認知的に間違った回路が出来上がったのだろう。人間の脳は不思議だ。それ以前は、アボカドをマンゴーと言い間違えることなどなかったが、この「寿司屋マンゴー事件」をきっかけに、以降、頻繁に言い間違えるようになる。あのとき、彼女の脳内でアボカドとマンゴーの間に何かしら誤った認知的結合ができてしまったのだろうと考えられるが、人間は些細なことで変化する物だと面白く思う。

 アボカドとマンゴーを言い間違えるくらい、何でも無い。お祖母ちゃん爆笑ネタが増えただけである。名前を言い間違える以外、その性質などは覚えているし、アボカドの可食部がグリーンで、マンゴーが甘いことをわかってくれていたら十分だ。どうせ食べないのだし…。

 言い間違えた本人は、少し恥ずかしい思いをするし、自身の認知的機能の衰えに不安に感じているだろう。しかし、この世のことで絶対に覚えておかないといけないことなど、大して存在しない。多少苦く感じても、笑って済ませられることも多い。そのことを気づかせてくれた「寿司屋マンゴー事件」だった。

 子どもが成長して、リンゴを「リンゴ」と言えるようになったら喜ばしく思う。大人になれば、リンゴを「リンゴ」と言えるのは当たり前に考えて意識もしない。そして、自分や家族がリンゴを「リンゴ」と言えなくなった時、さまざまな葛藤や摩擦が生じる。お祖母ちゃんとの生活は、「当たり前は当たり前じゃない」そんな心底の気づきがある。

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