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ファシリテーターを考える(*´ー`*)

先日。日本ファシリテーション協会(以下FAJ)に所属する友人から、「2022年ファシリテーションサミット東京 企画募集」の話をきく機会があった。

とっても魅力的な企画だと思ったけれど、残念ながら私自身は今は応募のタイミングではなかった。その代わりにこの話をきいた時から自分の中のファシリテーションについてずっと考えている。今回はファシリテーターについて書いてみようと思う。

「ファシリテーター」という言葉のひとり歩き

「ファシリテーター」とはどういう存在か?

ワークショップにおける進行役のことを指す言葉ではあるけれど、ワークショップ同様、意味合いの部分でモヤモヤを感じる機会が多い言葉だと私は感じている。今回も敢えて一切の引用はせずに私個人の見解として「ファシリテーター」、「ファシリテーション」を記そうと試みる。

わたしがワークショップについて学びたいと行動をはじめた2015年頃。「ワークショップ」よりも「ファシリテーション」、「ファシリテーター」について書いてある本の方が見つけやすかった。学術研究関係以外で多かったのはやはりビジネス関係、特に会議ファシリテーションについて言及している本だった。

その後、会議、セミナー、ワークショップいたるところでファシリテーターという肩書きを見るようになる。ワークショップという言葉を見かけるようになるのと比例していたが、ワークショップ=ファシリテーターというわけでもないようだ。

「ファシリテーター」という言葉はもっと気軽に耳に入ってきた。何かちょっとしたミーティングの際にも「ファシリテーターお願い」、「〇〇さんファシリテーターで進めてみよう」のように、「ワークショップ」とはまた違った扱われ方だ。

それはまるでファシリテーターがいる場はトップダウンの一方的な場ではなく、民主的な場であるという主張のようだった。そう、ファシリテーターという言葉にはその場にいる皆んなで決めているというニュアンスが込められていて、ファシリテーターの実際の役割は置いてけぼりになっている。。。この感覚が私にとっての違和感かもしれない。

〇〇ファシリテーター養成講座とは?

話は再び戻って2015〜2016年頃。「ファシリテーター講座」の様な勉強会の類はあったのだと思うけれど、それはやはりビジネス系が多く私にとって敷居が高かった。WSDを修了して以降よく見かけるのは、「〇〇ファシリテーター養成講座」というものだ。〇〇には大体コンテンツの名前が入る。これが中々曲者だ。

受講すると〇〇ファシリテーターになることが出来るとされている。〇〇ファシリテーターにはなれる。〇〇ファシリテーターにはなれるけど、△△ファシリテーターになるにはまた△△ファシリテーターの講座を受講する必要がある。

つまりこれらの講座は〇〇というコンテンツの利用資格を得るための講座である。もちろん、〇〇というコンテンツを使うためには、使い方だけではなくファシリテーターとして必要なコトも教わることができる(はず)。

講座を受講している人がその中身のどこまでがコンテンツについてで、どこからがファシリテーターとして必要なところか見分けるのは難しい。しかしこれらの講座から分かるのは講座を実施するには講座の中身+ファシリテーションがセットで必要であるという認識だ。

ファシリテーターの役割

講座におけるファシリテーターの役割はプログラムの作用の完遂だと私は考えている。

講座には参加者に取得してほしい知識や技術、はたまた感じてほしい思いや思考が詰まっている。ファシリテーターと名乗る人は参加者に取得してほしいモノを伝える、はたまた自分のモノにするためのお手伝いをする人である。

人が何かを出来るようになる時、話されたことを一発で理解して出来るようになれるかと言えばそうではない。そこで講座の中に体験的な学びを組み込み、答えを一方的に教えるのではなく、考えを促す問いかけをするのがファシリテーターであると私は考えている。

ファシリテーターの在り方

ちなみに。私はファシリテーションを講座に通って習ったことはない。だけど、ファシリテーターもできる人だと認識している。

ファシリテーション講座に通わず、どうやってファシリテーターが出来るという認識を持てるに至ったか。それは自分にとって見本となるファシリテーターのワークショップに参加又はお手伝いをして、その人から学び、学んだことを体得したと認識したからである。(加えてシンプルにファシリテーターとして仕事をしたことがあるから)

非常に抽象的な回答だが教えてもらった(教えてもらったこともあるけど)というより、その人達から私が感じ取ったコトというのが核になっている。

それはファシリテーターは必ず〇〇と言うという様な具体的な発言や行動ではなくて、在り方や参加者と接する姿勢だった。

例えばモチベーションUPのワークショップを実施する場合、ファシリテーターにはある程度のテンションの高さが求められるとする。その時たまたま元気がなく、それを無理矢理テンションを上げて実施することも出来なくはないが、ファシリテーターが自然にテンション高い方が参加者には受け入れられやすいのだ。

ファシリテーターは場をつくる人でもあるので、その人本人がどういう人であるか、又はどういう状態であるかが場に影響を与える。上辺を取り繕えば、参加者に心をひらいてはもらえない。学びを深めたり、体得するのに参加者がリラックスしていることが条件であるならば、ファシリテーター自身が自然体で自己開示していることが場を左右する。

おわりに

この文章がレポートや論文であるならば、客観的な事実や先行研究を調べ、論拠として記載する必要があるのだけれど、noteという立場や姿勢を選べる場なので、私が考えるファシリテーターを書かせてもらった。ありがたい。つまりこの文章は私の経験からでてきた言葉たちなので、他の方々と認識が異なる部分もあるだろうということ。そのため真剣に考えて書きつつ、ドキドキしていた。今回だけでは書き足りていない部分もあるので、今後も折に触れて書きたいテーマである。



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