何度もくりかえし読んでいる1冊
「無人島に1冊だけ持っていけるとしたら、どの本を選ぶ?」
本好きの人なら、こう質問されて「どの本にしようかな」と迷った経験が1回はあるでしょう。私は迷わずに答えられます。
私が無人島に持っていく1冊はコチラ。
写真家、星野道夫さん(1952-1996)のエッセイ集です。星野さんはアラスカを生活の基盤とし、18年間アラスカで暮らしました。アラスカの自然、そこに暮らす動物、エスキモー、インディアンなどの生活を、写真と文章で記録しました。
「旅をする木」は、静謐で滋味ゆたかな1冊。
読んだひとの心に平穏をもたらし、それと同時に静かなエネルギーをくれる本です。星野さんの文章を介在して、アラスカの雄大な自然の力が読者に届くような感じ。
私は1度もアラスカに行ったことはありません。でも、星野さんの文章を読むと、1度も見たことのない景色なのに、目の前になぜかその景色が見えるような気がするのです。アラスカに吹く風を感じられるのです。
氷河を抱いた山々
寒風吹きすさぶ雪原
白夜の淡い光
荒涼とした壮大な谷
アラスカの自然だけでなく、文章からは、野生の自然とともに生活していた星野さんの、ゆったりと微笑む姿や息遣いさえも聞こえてくるような気がします。
人間を拒絶するくらいに過酷で、あまりにも荘厳な自然をもつアラスカ。そこに暮らすザトウクジラ、カリブー、クマなどの野生動物たち。
それらを目の当たりにした星野さんは、人間の営みとは違う「もうひとつの大いなる時の流れ」を実感します。動物の生、自然の移り変わりという、もうひとつの時間。
その1つの例として、あるエピソードが紹介されています。
東京で忙しく働く星野さんの友人が、アラスカを訪れたときのこと。その友人は、クジラを撮影する星野さんの旅に参加したそうです。アラスカに1週間滞在し、東京に戻った友人はこう言います。
これこそが、星野さんが言う人間の営みとは違う「もうひとつの大いなる時の流れ」なのです。
毎回、ここを読むたびに涙が出そうになります。この1冊のなかで私が1番好きなセンテンス。
これは、極限の自然と向き合い、目の前に見えているものの背景に何があるのか、それを想像しながら生きているからこそ出てくる考え方や言葉なんだろうと感じています。
常に「もうひとつの時間」を意識していた星野さんは、心の視野が広い。起きたことをそのまま受け入れるような、そんな懐の深さが文章のあちこちから伝わってきます。
日本で多様性が叫ばれるようになったのは、昨今のことです。星野さんは、それよりもっと早い時期(このエッセイ集の多くは、1993~1994年に書かれています)から、多様性の価値に重きをおいています。
エスキモーやインディアンの生活を見聞きしたり、アラスカで暮らす白人たちと触れ合うなかで、彼らの多様な人生に魅せられ、大きな影響を受けたのでしょう。
この本のキーワードの1つは「多様性」だと感じました。
アラスカの野生動物の生き方、アラスカで暮らす人たちの生き方、星野さん自身の生き方。それぞれが違っています。
自分と違うものをすっぽり受け入れることのできる心の広さ。そんな心をもっていた星野さんだからこそ、アラスカで暮らす人たちだけでなく、彼の人生で出逢った人たちから慕われ、信頼されていたのだろうと思います。
「旅をする木」を読むたびに心に響いた箇所に付箋をつけるのですが、その付箋が毎回同じ箇所のときもあれば、別の場所に付箋をつけかえることもあります。付箋の箇所を見ると、そのときの自分の心境の変化が分かり、自身の心と対峙しているような、そんな気持ちになります。
この本は、私にとって心の栄養。
「まぁまぁ、落ち着きなさいよ」と肩をポンポンとたたき、心を静め、そして心をあたためてくれる1冊です。
星野さんが亡くなったあとも、こうして繰り返し読むことのできる尊さ。
そのことに感謝し、私はこれからも「旅をする木」をずっと読み続けていきます。