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教えたいけど教えたくない場所

寄り道で、めちゃめちゃイイものを見つけた。

陽ざしのやわらかいある日。1人で散歩をしていたワタシは、伸びをしながら青い空を見上げた。

「ん?あれ、なんやろ?」

向こうにある建物のベランダから、道に向かって“何か”が揺れている。

その“何か”を目指して細い道に入ってみる。レンガ造りの古いマンションがあった。その1室のベランダから、1本の棒が突き出ている。棒には、大きめの黄色いハンカチがついていて、ハタハタと風に揺れている。

『幸福の黄色いハンカチ?』と思いながら、マンションの入口に近づく。そこには、見落としそうになるくらいの控えめな看板。どうやら、マフィン屋さんのようだ。こんな細道の古いマンションに、マフィン屋さん?

看板には5階と書かれている。あの幸福の黄色いハンカチのフロアだ。マンションの5階まで上った。

5階に着くと、どこからともなく甘くて香ばしい香り。鼻をクンクンいわせながら、甘い匂いのするほうへ歩を進める。花の蜜に誘われるミツバチのように。

あ、ココやな。

ほんの少しだけ開いているドアから、幸せの香りがゆらぁりゆらぁりと立ちのぼっている。

「こんにちはー」とドアを開けた瞬間に、バターの香りと、焼き菓子の甘くて香ばしい香りが、全身をふわっと包み込んだ。口元が自然とゆるむ。

キッチンとカウンター5席の、ささやかなマフィン屋さんだ。

真っ白な壁には、チョコレート色の細長い枝が、オブジェとして飾られている。木目のカウンターは落ち着いたベージュ。入口の近くには、木製ショーケース。ショーケースには、焼きたてマフィンとタルトがズラリ。

んー、どれどれ?とガラス張りのショーケースをのぞいた。

ブルーベリー&クリームチーズマフィン
バナナ&チョコレートマフィン

りんご&バターシナモンマフィン
くるみ&ホワイトチョコマフィン

キウィ&サワークリームマフィン
オレンジ&茶葉マフィン
抹茶&ホワイトチョコマフィン


女性の店長さんが、「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれた。1人で切り盛りしているようだ。真っ白な半そでシャツに、生成りのエプロンをつけている。ショートカットの彼女は、清潔でこざっぱりとしていて、お店の雰囲気にぴったり。

今日の寄り道は大当たりやな、と心の中でガッツポーズをして、カウンターに座る。カウンターで焼きたてのバナナ&チョコレートマフィンを頬張りながら、キッチンを眺める。

店長がマフィン作りの真っ最中。

大きなボウルに材料を入れ、くるっくるっとリズミカルに混ぜる。マフィンの型に、トロトロトロと生地を満たす。クリームチーズ、フルーツ、チョコレートダイスなどを、生地の上にポトンポトンと落としていく。

彼女の手の動きから、マフィンを慈しんで作っているのが分かる。

大きなオーブンから、ゆらゆらと甘い香りが立ちのぼり、焼きあがったマフィンの天板がオーブンから取り出された。

マフィンを作る一連の流れが、ワタシの心を和やかに穏やかにしてくれた。

コーヒーを飲もうとカップの縁に口をつけた。びっくり。今まで出会ったカップと全く違う。

唇にすっと馴染んで、優しくなめらかにフィットするカップ。表面はきめ細かく、縁は薄い。まるで、気持ちのいいキスをしているようだ。

あまりに驚いたので、材料を混ぜている店長さんにカップのことを聞いてみた。

彼女は、「気づいてくれて嬉しいです。お店で使っているカップは、私の選りすぐりなんですよ。結構な数のカップを自分で試してみて、コレ!と思っているものだけを置いてるんです。」

お店に置いてある全てのものが居心地よさそう。きっと、彼女の愛情のおかげだ。

香ばしくて甘い香りと、店長さんの穏やかさに包み込まれたい。そんな気分になると、レンガ造りの古いマンションの5階まで階段を上がる。いつも1人で。

ここは、なんというか、友達にすすめたいけど、だけど、秘密にしておきたい場所。

スマホの小さな画面を見ているのはナンセンス、と思える空間なので、マフィン屋さんに行くときには必ず持っていくモノがある。余白の多い短編小説だ。

マフィンを作る工程を眺めたり、幸せな焼き菓子の香りを思いっきり吸い込んだり。

カウンターで隣り合わせたお客さんや店長さんと、他愛ないおしゃべりをしたり。

お気に入りのカップとキスをしながら、本を読んだり。

家から歩いてほんの10分。日常生活の範囲内にあるけれど、非日常空間のマフィン屋さん。心をまあるく優しく包み込んでくれるこの空間は、教えたいけど教えたくない場所だ。

みんなの、教えたいけど教えたくない場所はどこですか?

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