教えたいけど教えたくない場所
寄り道で、めちゃめちゃイイものを見つけた。
陽ざしのやわらかいある日。1人で散歩をしていたワタシは、伸びをしながら青い空を見上げた。
「ん?あれ、なんやろ?」
向こうにある建物のベランダから、道に向かって“何か”が揺れている。
その“何か”を目指して細い道に入ってみる。レンガ造りの古いマンションがあった。その1室のベランダから、1本の棒が突き出ている。棒には、大きめの黄色いハンカチがついていて、ハタハタと風に揺れている。
『幸福の黄色いハンカチ?』と思いながら、マンションの入口に近づく。そこには、見落としそうになるくらいの控えめな看板。どうやら、マフィン屋さんのようだ。こんな細道の古いマンションに、マフィン屋さん?
看板には5階と書かれている。あの幸福の黄色いハンカチのフロアだ。マンションの5階まで上った。
♢
5階に着くと、どこからともなく甘くて香ばしい香り。鼻をクンクンいわせながら、甘い匂いのするほうへ歩を進める。花の蜜に誘われるミツバチのように。
あ、ココやな。
ほんの少しだけ開いているドアから、幸せの香りがゆらぁりゆらぁりと立ちのぼっている。
「こんにちはー」とドアを開けた瞬間に、バターの香りと、焼き菓子の甘くて香ばしい香りが、全身をふわっと包み込んだ。口元が自然とゆるむ。
キッチンとカウンター5席の、ささやかなマフィン屋さんだ。
真っ白な壁には、チョコレート色の細長い枝が、オブジェとして飾られている。木目のカウンターは落ち着いたベージュ。入口の近くには、木製ショーケース。ショーケースには、焼きたてマフィンとタルトがズラリ。
んー、どれどれ?とガラス張りのショーケースをのぞいた。
ブルーベリー&クリームチーズマフィン
バナナ&チョコレートマフィン
りんご&バターシナモンマフィン
くるみ&ホワイトチョコマフィン
キウィ&サワークリームマフィン
オレンジ&茶葉マフィン
抹茶&ホワイトチョコマフィン
女性の店長さんが、「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれた。1人で切り盛りしているようだ。真っ白な半そでシャツに、生成りのエプロンをつけている。ショートカットの彼女は、清潔でこざっぱりとしていて、お店の雰囲気にぴったり。
今日の寄り道は大当たりやな、と心の中でガッツポーズをして、カウンターに座る。カウンターで焼きたてのバナナ&チョコレートマフィンを頬張りながら、キッチンを眺める。
店長がマフィン作りの真っ最中。
大きなボウルに材料を入れ、くるっくるっとリズミカルに混ぜる。マフィンの型に、トロトロトロと生地を満たす。クリームチーズ、フルーツ、チョコレートダイスなどを、生地の上にポトンポトンと落としていく。
彼女の手の動きから、マフィンを慈しんで作っているのが分かる。
大きなオーブンから、ゆらゆらと甘い香りが立ちのぼり、焼きあがったマフィンの天板がオーブンから取り出された。
マフィンを作る一連の流れが、ワタシの心を和やかに穏やかにしてくれた。
♢
コーヒーを飲もうとカップの縁に口をつけた。びっくり。今まで出会ったカップと全く違う。
唇にすっと馴染んで、優しくなめらかにフィットするカップ。表面はきめ細かく、縁は薄い。まるで、気持ちのいいキスをしているようだ。
あまりに驚いたので、材料を混ぜている店長さんにカップのことを聞いてみた。
彼女は、「気づいてくれて嬉しいです。お店で使っているカップは、私の選りすぐりなんですよ。結構な数のカップを自分で試してみて、コレ!と思っているものだけを置いてるんです。」
お店に置いてある全てのものが居心地よさそう。きっと、彼女の愛情のおかげだ。
♢
香ばしくて甘い香りと、店長さんの穏やかさに包み込まれたい。そんな気分になると、レンガ造りの古いマンションの5階まで階段を上がる。いつも1人で。
ここは、なんというか、友達にすすめたいけど、だけど、秘密にしておきたい場所。
スマホの小さな画面を見ているのはナンセンス、と思える空間なので、マフィン屋さんに行くときには必ず持っていくモノがある。余白の多い短編小説だ。
マフィンを作る工程を眺めたり、幸せな焼き菓子の香りを思いっきり吸い込んだり。
カウンターで隣り合わせたお客さんや店長さんと、他愛ないおしゃべりをしたり。
お気に入りのカップとキスをしながら、本を読んだり。
♢
家から歩いてほんの10分。日常生活の範囲内にあるけれど、非日常空間のマフィン屋さん。心をまあるく優しく包み込んでくれるこの空間は、教えたいけど教えたくない場所だ。
みんなの、教えたいけど教えたくない場所はどこですか?
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