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鬼ごっこ(ショートショート)

「実は私は死なないんです」
 精神科の久山先生のもとへ現れた患者は開口一番こういった。
 ここは久山精神心療内科という、ある高層ビルディングの15階にある病院だ。
「死にたいんです」という患者なら何人も見てきたけれど、「死なないんです」という患者は初めてだ。何のためにきたのか。確かにまともではない。
「ほう、それはどういうことですか」
 いたって普通の患者に接するように久山先生は聞いた。
「ある薬を発明して、実験で自分で飲んだんです。そしたら実験は成功して、死なないからだになってしまったのです」
「ほう、それをなぜ学会とかに論文で紹介するとかしないんですか」
「最初は大喜びで実験の成功を喜んだのですが、それから国際スパイから狙われるようになって、さっきまで拷問を受けていました」
 被害妄想患者か。重症だな。
「死なない体になっても、痛いのは痛いんです。ただ、すぐに傷は治るから、不気味がられて、なお一層拷問をかける。薬の作り方を教えれば解放されるのでしょうけど、薬を飲んだら忘れてしまったのです。メモも無意識に燃やしてしまいました。教えたくても教えられないのです。助けて下さい」
「どうやって逃げてこれたのですか」
「わからないけど、開放されたのです。いくら拷問をしてもラチがあかないから、泳がせて様子を見ようとしているに違いありません。きっとここも、どこかからか見張られています」
 これは入院が必要だな。久山先生はそう判断すると、患者に「しばらく様子をみるために入院しましょう」といった。
 患者は怪訝そうな顔になり、いきなりズボンのポケットから小型のナイフを取り出すと、自分の腕に刺した。先生が「あっ」という間もなかった。出血を確認すると患者はナイフを抜いた。すると、これまたまばたきをする間もなく、傷跡は消えてしまった。まるで手品のように。
「どうです。信じてもらえましたか」
「手品じゃないんでしょうね」
「もう一回しましょうか。今度は先生が好きなところに刺して下さい」
 冗談じゃないというような顔を久山先生はして、両手を振った。
「あなた、くるところが、間違っていますね。警察に行ったらどうですか」
「そうも考えたのですが、おおごとにはしたくないのです。製法も忘れてしまってますので」
 そこへ突然、見知らぬ西洋人の男が4人、突然部屋に入ってきた。
「なんだ君たちは」先生が叫んだが、連中は拳銃をかまえていた。
「本部に連絡したら、本国へ移送せよとのお達しなので、一緒にきてもらおう」
 続けざまにありえないことが起こって先生は狼狽するしかない。患者は顔面蒼白だ。
 突然患者は4人を押しのけ、部屋の外へ逃げた。4人は拳銃を構えたが、無駄なことだと気づいて撃つのを止め、急いで追いかけた。
 患者は15階の強化窓ガラスに全力で体当たりして、空中に飛び出した。そして真っ逆さまに地上へ落ちていった。
「ちくしょう、追え」
 連中はエレベーターをイライラしながら待った。
 久山先生は地上を見下ろした。飛び降りた患者の肉体は四方八方に飛び散り、原形を留めていなかった。
「ああなっても元に戻るのだろうか」
 半信半疑である。もし元に戻らなければ、死ぬだけである。
「いっそ死んでしまったほうが、幸せだったかもな」
 先生は目を閉じ合掌しながらつぶやいた。
 だが目を開けた瞬間、信じられない光景を見た。たくさん飛び散った肉片がそれぞれ動き出し、それぞれが、形をつくっていくではないか。3分ほどたつと、先程の患者が肉片として飛び散った分だけ、とんでもない数にもなって、その場を埋め尽くし、立ちすくんでいた。
 追いかけていた4人の男たちは、どれを捕まえればいいか悩んでいた。やがて患者は三々五々逃げ出し、男たちもそれぞれ追いかけていった。
 壮大な鬼ごっこが始まった。
 
 

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