見出し画像

クウシュウ

総務省資料

 私の母は昭和10年生まれ。2月で87歳になる。福岡で生まれ、福岡で育った。太平洋戦争当時、地行西町、現在の福岡市中央区地行に住んでいた。今でも母方の先祖の墓は唐人町との境にある菰川沿いにある。江戸時代、黒田藩の家臣で、賄方を仰せつかっていたらしい。

 昭和19年(1944年)6月19日22時頃、B29が次々来襲。当時母は9歳。下に弟が2人おり、2人目はまだ赤ん坊だった。その日、祖父は夜勤で不在であった。逓信省の役人だった。曾祖父と祖母が家にいた。母は曾祖父が嫌いだった。癇癪持ちで、いきなり冷たい水を頭からかけるような人で、カネづかいも荒く、酒好きで、この人のせいで、祖先からの財産は食いつぶされてしまったらしい。
 日本軍は探照灯で敵機の影を追いながら、高射砲で散発的に応戦するも、焼夷弾が投下され炸裂すると、その光を頼りに次から次へとB29が来襲してきた。
 家族だけでなく、周りの人は皆逃げ惑った。どこへ逃げればいい?どこが安全か?着の身着のままで逃げた。
 大濠公園は軍の所有地であったが、軍が門を開け、人々を受け入れた。大濠公園を目指してみんな逃げることにした。
 途中母の目の前で親戚の子が焼夷弾の直撃を受けて死んでしまった。だがそれを振り返る悲しむ余裕などはない。必死で大濠公園を目ざした。そして2時間後、やっと空襲はやんだ。命を拾った。
 被災面積3.78㎡、被災戸数1,2693人、被災人口60,599人。死者902人、負傷者数1,078人行方不明244人。(総務省調べ)
 家は被災していたが、空襲から免れた曾祖父の知り合いが、布団やら着るものやら世話をしてくれた。嫌いだった曾祖父には方々に人望があったようで、この時ばかりは人の情けが身に沁みたといっていた。

 結局仕事のある祖父を残し、一家は長崎の小浜に疎開することになった。食べるものもままならず、毎日やせたいもやかぼちゃばかりであった。母は今でも、かぼちゃと芋が嫌いだ。


 8月9日、遠くの空にきのこ雲を見た。




 
 
 
 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?