気遣いはいい事だけど疲れる

生まれてからずっと人の声や顔の変化を読み取っていたせいなのか人が「怒っている」、「悲しんでいる」を読み取ると同時に共感してしまう。冷たい視線も尖った冷たさを感じる。部屋が寒いというわけではない。ただ感じる。その「感じ」を何となく手で触れている「感じ」。見えないけれど感じる事が出来る。その為、人一倍気遣いをしてしまう。他人からその気遣いっていう「才能」欲しいとまで言われる。しかし、この「才能」は持っている人間にしか分からない辛さもある。この辛さを言える心を許した人が近くにいれば、そこまで辛くはないだろう。しかし、私は「感じ」で生きてきた。「感覚」と「慣れ」を誰かに教える又は伝えるとなると難しいものである。それと同様、自分の状態を簡潔に伝えるのはとても難しい。これを上手く伝える事が出来れば辛さを半減出来る。伝える事がこんなにも難しいとは。伝わらなければ欲しいアドバイスも貰えない。つまり、簡単に解決する方法としては、「私は最後まで隠し通そう」と思う。気遣いをする人間が故の誰も傷つかない、誰にも心配かけない唯一の方法かもしれない。

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