雀荘徒然(フリー雀荘編)

フリー雀荘と聞いて、雀荘のゲーム料金がフリー(無料)だと勘違いして入店するお客さんがいました。フリー雀荘のフリーはそういう意味ではありません。18歳以上であればどなたでもご来店いただいて構いませんよっていう意味です。千客万来を願う店の気持ちを表現したものと思ってください。ただし、お店のルールは守ってくださいねと説明はありますが。


麻雀放浪記の世界観

フリー雀荘は、阿佐田哲也さんの「麻雀放浪記」でも色々な場所ででてきます。作品の舞台は、第二次世界大戦終了後(1945年、昭和20年)の日本がまだ混沌としていた時代。GHQがいた時代なんて僕も映像や書物でかじったくらいなので全くわかりません。隔世の感があります。

東京界隈では4人打の半荘戦、大阪では4人打のブー麻雀が記されています。東京の4人打半荘戦のレートが点10とありました。現在のフリー雀荘をもと(順位ウマ10-20)に考えると、だいたい5半荘で1万円前後の動きになりそうです。当時の物価と現在の物価の比較をするために、以下に大卒の初任給を掲載(ネットの拾い物です)しておきます。

大卒初任給(昭和20年から昭和36年)

昭和20年 銀行員大卒初任給 80円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/20.htm
昭和21年 国家公務員大卒初任給 540円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/21.htm
昭和22年 銀行員大卒初任給 220円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/22.htm
昭和23年 国家公務員大卒初任給 2990円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/23.htm
昭和24年 銀行員大卒初任給 3000円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/24.htm
昭和25年 銀行員大卒初任給 3000円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/25.htm
昭和26年 銀行員大卒初任給 3000円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/26.htm
昭和27年 銀行員大卒初任給 5600円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/27.htm
昭和28年 銀行員大卒初任給 5600円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/28.htm
昭和29年 銀行員大卒初任給 5600円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/29.htm
昭和30年 銀行員大卒初任給 5600円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/30.htm
昭和31年 銀行員大卒初任給 5600円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/31.htm
昭和32年 銀行員大卒初任給 12700円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/32.htm
昭和33年 銀行員大卒初任給 12700円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/33.htm
昭和34年 公務員大卒初任給 10200円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/34.htm
昭和35年 大卒初任給 12190円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/35.htm
昭和36年 大卒初任給 15690円。
http://kangaeru.s59.xrea.com/36.htm

昭和36年(1961年)であっても、1日で1万円動く点10は大きなレートであったと想像できます。つまり、この時期のフリー雀荘はバクチ場であったと想像されます。


1990年まで

関西圏では4人打ブー麻雀やそれに似たルール。関東圏では4人打半荘戦が主流だったのではと思います。ブー麻雀の流行っていた店では一つの紙に250ゲーム記載できるゲーム表が、1日の営業で5枚以上埋まるくらいだったそうです。莫大な利益をあげていたようです。ブーのレート感は難しいので、不確かな情報にならないように記載は控えます。4人打の半荘戦は点10が主流で、さらに大きいのもあったようです。

1955年(昭和30年)から1973年(昭和48年)は、日本は高度経済成長期であったため、所得も右肩上がりに増え、フリー雀荘も賑わっていたようです。ただし、レートに関しては据え置き。バクチからレジャー感覚に変わっていったと考えられます。


1990年代

関東を中心に4人打点5のフリー雀荘がニョキニョキと出現しました。そのブームの火付け役は竹書房の近代麻雀だったと思います。また、その中でも二階堂亜樹プロが、安藤満プロプロデュースの「きらきら惑星(きらきらぼし)」の広告に掲載されたことのインパクトは絶大でした。連日のように満卓だったと聞きました。直に2号店も出店。

点5フリーのメイン客層である大学生にとってこれくらいの刺激はちょうどよく、日本各地に点5フリーは広まりました。また近代麻雀では、フリー雀荘に通うためのマニュアルなんかが巻頭で特集されました。

そこから差別化をはかるために「ギャル雀」と呼ばれる女性メンバーだけのお店や、女性メンバーが主流のお店が出現しました。高田馬場の「ポリエステル100%」、渋谷の「ラブラブボンバー」、錦糸町の「まあじゃん幼稚園」などなどは伝説の雀荘です。それぞれの店で、当時働いていた女性メンバーが、麻雀プロにたくさんなり、現在まで活躍されているプロもいます。

点10では「さかえ」「さん」が元気でした。点5では「ウエルカム」がチェーン店化に成功。後を追うように「ZOO」が出現。京都に「マーチャオ」が出現したのは90年代後半です。

歌舞伎町界隈では、点20の半荘戦の店が軒を連ねていました。いくつかの店が摘発され閉店。生き残っていた店Fが大繁盛。さらに値上げをして荒稼ぎをしていたとか。そこも摘発。たまたま蛭子能収さんがいて逮捕。蛭子能収さんは、この件を機にフリー雀荘には行かなくなったとか。

バブル景気やその名残もあり、点10の雀荘はもちろん元気でした。関西では1985年の風俗営業法改正でブー麻雀が規制されたことで、サンマへと移行が進みました。そのあたりのことは以下の記事にあります。


2000年代

ギャル雀はとても流行りましたが次第に衰退します。理由はたくさんあったようです。女性メンバーの中にはモラルが低い者もいて勤怠管理の難しさ。負け分負担ともともとの高い時給ですから、ギャル雀が増えたことで競争によりゲーム数が下落するとリアルに経営が緊迫。1店舗、また1店舗と消えていくこととなりました。現在でも名古屋の「ひまわり」さんが頑張っておられます。が、コロナの影響もあってか厳しそうに感じます。バブル崩壊もあり、関東地方の各駅にあったような点10や点5のフリー雀荘は少しずつ閉店していきました。


2010年代

2000年あたりから、東京の歌舞伎町に4人打の東風戦が出現。通称「ピン東(ピントン)」。もともとこの地域は高レート化し、点20の半荘戦などがたくさんありました。しかし歌舞伎町浄化計画のなかで1軒、また1軒と警察が入り閉店。それに代わり、レートを下げてスピード化したのがピン東。もともと点20の20-60を点10の20-50などと変更。ベースのレートは下げたが、順位ウマ、祝儀はあまり変わないので、実質は点20と変わらない。それが近年はご祝儀牌が増え過激化。実質レートは向上。警察の麻雀組合への指導もあり、これ以上の過激化も一段落?


2020年から現在まで

東京の過激化したピン東をモチーフにした、祝儀牌がたくさんのサンマが東京に出現。現在では、新橋駅周辺に密集。またさかえ、さんグループ、ウエルカム、ZOO、マーチャオのチェーン店もサンマを導入。サンマの人気は関西だけに留まらず、凄まじい勢いで広まっています。

Mリーグにより、ノーレート雀荘も出現。4人打点5フリーは衰退の一途をたどっています。学生のフリー雀荘への登竜門として、まだまだ元気でいて欲しいもんです。


今回は3000文字を超えました。まだ書き足らない部分はあります。
最後まで読んでくれたかた有難うございます。
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