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【沖縄戦:1944年7月18日】東条英機の失脚─近衛文麿ら反東条宮中グループの終戦構想と沖縄戦

「東条独裁」─東条の政治力の背景

 首相東条英機はこの日、内閣総辞職を上奏した。41年10月の大命降下より約3年つづいた東条内閣はここに瓦解し、東条は失脚する。
 東条は「東条独裁」ともいわれる巨大な権力を握り、総力戦を遂行していった。その政治力の背景には、当時の金額で16億円ともいわれる巨額の政治資金や陸軍が鹵獲した米国製の物品など、財物にものをいわせて皇族や宮中など各方面へ「付け届け」を抜かりなく行うことによって勝ち取った信頼や評価にあった。ちなみに東条の政治資金には、興亜院によるアヘンの密売の売り上げもあったという噂が当時からなされている。
 それとともに憲兵を握っていたことも、東条の権力を固める要因となった。東条は一時期、満州の関東憲兵隊司令官の職にあった。そして、その際に高級副官を務めた四方諒二大佐が42年に東京憲兵隊長に就任すると、東条の意をうけた「憲兵政治」がはじまる。すなわち憲兵が東条の政敵を監視し、弾圧するようになったのである。
 その他にも、ラジオへの出演や新聞への露出などマスメディアを積極的に利用したこともあるが、何より東条の政治力の背景は、天皇の信任と国民の支持であった。昭和天皇は敗戦後も東条への信頼を口にしているし、真珠湾攻撃以来の戦争の初期作戦の成功は、東条の政治的威信となり、国民からの熱烈な支持をとりつけた。
 一方で強権的支配者の特徴でもあるが、東条はテロや倒閣の陰謀に日々おびえていたのも事実のようだ。内閣に対する国民の一部の不穏な発言を聴取し、特に左右両翼が内閣をどのように評価しているか気にして、テロの勃発について警戒していた。また、そうした右翼方面に近衛文麿らが通じ、倒閣の動きをしているのではないか、あるいは閣内に左翼思想を持つ者がいて、今後の政権運営を邪魔するのではないかなど、ある種の陰謀論のような恐怖にも取りつかれていたという。

41年12月11日の開戦直後の大詔奉戴国民大会で演説する東条英機:NHK戦争証言アーカイブス

「東条離れ」と倒閣運動

 しかし43年も終わりとなると、戦局の悪化に伴い、国民の東条支持はかげりが見えてきた。東条と対立する皇道派の将軍小畑敏四郎中将は近衛文麿の側近に「民心はもう全く、東条内閣から離れて居る様だ。[略]今日は上下を通じて離れて居る」と述べた。一部の知識人などではなく、一般の国民も「東条離れ」がすすんでいった。戦況は厳重な言論統制下にあったが、南方戦線からの帰還兵の話を通じ、国民は戦況が悪化していることを知り、大本営発表を信じなくなっていった。
 東条自身も戦況の悪化にいらだち、感情的な言動が目立った。そして東条は、東条内閣に批判的な人士を召集し前線に送る「懲罰召集」や激戦地への転任命令などもおこないはじめた。新聞にも少しずつ「勝利か滅亡か、戦局は茲まで来た」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という見出しも出はじめるなど、政治的威信もぐらついていた。
 東条は局面打開のため統帥権を獲得しようと画策し、東条が参謀総長を、嶋田海相が軍令部総長を兼任するが、これが岡田啓介や近衛文麿ら重臣(元首相や枢密院議長など)を中心とする反東条の宮中グループに「統帥権干犯」という東条批判の言質を与えることになった。
 44年6月の米軍のサイパン上陸とマリアナ失陥により、反東条グループは東条内閣の倒閣運動を開始し、嶋田海相の更迭を求めた。東条は倒閣運動を察知し重臣の入閣など様々な手を打ち反東条グループを取り込もうとしたが、入閣を期待した米内光政に入閣を拒否され、また重臣などを入閣させるため岸信介に国務大臣職の辞任を求めたがそれを拒否されるなど、東条内閣は瓦解をはじめ、この日の総辞職となった。
 反東条グループの高木惣吉海軍少将は、東条の総辞職について、「東條は参内、辞表も捧呈せずして総辞職の決意を述べ、後継内閣の組閣に協力すべき事、奏上。暗に御引留め下さる最後の機会を狙える心情陋劣唾棄するに堪えたり」と記している。
 東条は、わざと辞表を持たず天皇に総辞職の決意を上奏することにより、天皇から慰留されることを狙ったのであり、そうした策略は唾棄すべきものであると、高木少将の激烈な東条批判である。いささか感情論に走っており、東条としてもそこまでの考えはなかったようにも思うが、ともかくそれほどまでに東条は憎まれていたのである。もちろん一部には東条内閣の総辞職について東条への同情的な意見もある。

42年5月、各界要人を招き挨拶する東条英機 大政翼賛会首脳なども招かれたが、大政翼賛会幹部も最終的には「東条離れ」をおこした:NHK戦争証言アーカイブス

反東条グループの終戦構想

 こうした東条内閣を倒閣した岡田、近衛らを中心とする反東条グループは、今後の政治と戦争指導をどのように考えていたのだろうか。
 反東条グループといっても様々な人物がいて、様々な派閥があるため一概にはいえないが、基本的には早期講和の道を模索していたといえる。その上で東条内閣の倒閣を主導していった近衛と木戸幸一内大臣は、東条内閣の次にすぐ和平内閣をつくるのではなく、そのための前哨戦のような内閣を一度置いて方向転換をし、その後に皇族を首班とする和平内閣をつくることで一致していた。和平を模索してもしばらくは戦争を継続せざるを得ず、そのため皇族が首班であると戦後、皇族への戦争責任の追及がおこなわれる可能性があり、東条後にワンポイントリリーフの内閣を置き、その後に皇族首班の和平内閣をつくろうというのである。
 事実、近衛などは当初、東条にとことんまでやらせ、米軍の本土爆撃が激化し、本土上陸がいよいよとなるくらいのタイミングで倒閣し、皇族首班の内閣を組閣し講和にもっていくべきと考えていた。いずれにせよ反東条グループとしては戦争の責任を東条に押しつける算段であった。
 結果としてこの日、東条は総辞職を上奏し、近衛や木戸などの重臣会議により小磯国昭陸軍大将を首班とする内閣の成立が決まった。しかし小磯内閣は米内光政海軍大将との「連立政権」であり、その指導力はかなり危うかった。
 そうしたこともあり、これより軍部ではなく重臣や政治家が戦争終結に向けて動き出す。その際たるものが45年2月の近衛と吉田茂による近衛上奏であるが、これを拒んだのは昭和天皇であった。昭和天皇は早期講和に懐疑的であり、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」とした。そして、近衛上奏の情勢において、もう一度戦果をあげるべき戦場は、沖縄以外になかったのであった。

参考文献等

・戦史叢書『大本営陸軍部』<8>
・吉田裕『シリーズ日本近現代史6 アジア太平洋戦争』(岩波新書)
・山下祐志「アジア・太平洋戦争と戦後教育(8)─東条内閣の栄枯盛衰─」(『宇部工業高等専門学校研究報告』第38号、1992年)
・一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』(文春新書)

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東京裁判に出廷する東条英機:栗原俊雄「私たちがまだまだ知らない「東京裁判」とは何だったのか?」(講談社現代ビジネス2019年7月18日)