見出し画像

【沖縄戦:1945年6月7日】「短兵功ヲ焦ルコトナク極力敵出血ヲ強要シ」─海軍部隊にも徹底していた持久戦の思想 最高戦争指導会議と御前会議の開催

海軍部隊の戦い

 小禄、豊見城地区では海兵隊を中心とする米軍と海軍沖縄方面根拠地隊の戦闘が続く。
 特に小禄、金城、赤嶺、具志の各集落では激戦となり、小禄集落西方の高地を占領した米軍は豊見城方面へ攻撃してきた。また前線指揮所があった赤嶺集落付近では逐次米軍が進入した。具志集落東方の高地では一時米軍に占領されたが、これを撃退した。
 平良地区の海軍部隊は米軍と昨日より交戦中であったが、この日ついに弾薬が尽き、海軍沖方根大田司令官は宜保方面へ撤退を命令した。米軍はこれに乗じて宇栄田付近まで進出した。
 昨日来、米軍陣地の背後を射撃していた瀬長島の海軍砲台は、この日早朝米軍の艦砲射撃によって破壊されたため、大田司令官は伊良波方面への撤退を命じた。

画像1
7日の海軍部隊と米軍の戦況図 赤線が7日の米軍の進出ライン:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 この日午後、大田司令官は各隊に次のように訓示した。

 〇七一五〇六番電
 小禄地区ニ敵来襲以来各隊連日肉弾特攻精神ヲ以テ勇戦敢闘セルハ本職ノ最モ心強サヲ覚エ戦果ノ期待ヲ大トスル所ナリ 今ヤ当地区ノ決戦段階ニ入リ諸子益々強靭作戦ニ徹シ短兵功ヲ焦ルコトナク極力敵出血ヲ強要シ予ネテ覚悟シタル小禄死守ニ海軍伝統精神ノ発揚ト戦果獲得ニ全力ヲ致サンコトヲ望ム 予ハ七四高地ニ在リ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 陸戦部隊といえども、海軍部隊からも「短兵功ヲ焦ルコトナク極力敵出血ヲ強要シ」という言葉、すなわち持久戦の作戦方針が出てくるところに沖縄戦の性格を読み取ることができる。また大田司令官は司令部の壊滅が迫った11日には、「敵後方ヲ攪乱又ハ遊撃戦ヲ遂行ノ為相当数ノ将兵ヲ残置ス」と第32軍に打電しており、ここにも海軍部隊の持久戦、遊撃戦展開への強い意志と計画が理解できる。

小禄での戦闘を経験した玉栄真佐子さん:NHK戦争証言アーカイブス

相次ぐ激励電

 海軍第5航空艦隊宇垣纏司海軍令長官は昨夕、大田司令官の訣別電に接し、また海軍沖方根棚町整参謀から「連絡通信に終止符を打つべき時機到来せり」との報をうけたため、棚町整参謀や海軍南西諸島航空隊川村匡司令に激励電を発した。宇垣司令長官の激励電は次の通り。

  [略]
 機密第〇七一〇二二番電
発 五AF長官
宛 南西諸島航空隊司令
通報 沖縄特根司令官
司令以下隊員一同ノ長期ニ亘ル奮戦ヲ多トシ最後ノ一兵ニ至ル迄海軍ノ伝統精神ヲ発揮シ皇国護持ノ任ニ邁進センコトヲ望ム
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 「五AF長官」というのは第5(五)航空艦隊(Air Fleet か)の宇垣司令長官という意味である。この激励電に対し、この日夜川村中佐より次の通り返電があった。

 〇七二〇一八番電
 敵上陸以来部下一同克ク結束下ニ勇戦敢闘中ニシテ特ニ小禄地域戦闘状態ニ入ルヤ連日連夜文字通リノ肉攻斬込ニ徹シ各員殊死奮闘中ノ所御懇篤ナル激励ニ接シ隊員一同更ニ奮起皇国護持ノ任ニ邁進以テ御期待ニ沿ハントス

(上掲戦史叢書)

 また佐世保鎮守府司令長官も大田司令官に対し次の通り激励電を発した(「……」は判読不能箇所)。

 〇八〇一二五番電
 驕敵ヲ邀ヘ撃ツコト既ニ二ヶ月余此ノ間ニ於ケル貴隊ノ勇戦感謝ノ外ナシ 而モ……所重大ナル戦況ニ当面ノ将兵欣然一丸トナリ愈々忠誠ノ念ニ徹シテ士気軒昂血闘……期シアルノ報告ニ接シ真ニ感激ニ堪ヘズ 本府ノ全力ヲ挙ゲテ急遽増援スルノ途ナキニ切歯シツツ切ニ健闘ヲ祈ル

(上掲戦史叢書)
画像3
進撃する部隊を掩護射撃する海兵隊員 45年6月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-29-4】

7日の戦況

 島尻地区では米軍が第32軍主陣地である八重瀬岳地区に猛烈な砲爆撃をくわえるとともに、独立混成第44旅団の防衛地区正面に猛攻をおこなった。
 第2砲兵隊第3大隊の守備する新城南方の警戒陣地は馬乗り攻撃をうけた。尾崎大隊長は夜、配備を大隊本部洞窟付近に収縮し、戦闘態勢を整えた。その他の地区では米軍を撃退した。
 東風平南東地区の海軍丸山大隊の一部による警戒部隊は、5日以来米軍の重包囲のなかで奮闘したが、この日夜八重瀬岳陣地に撤退した。総員65名中43名が死傷するという壊滅状況であった。
 鈴木混成旅団長は当初、具志頭付近を前進陣地とするよう命令していたが、同地の重要性からこれを主陣地として確保するよう独立混成第15連隊美田連隊長に命令した。
 志田伯に警戒部隊として配置された歩兵第22連隊第1大隊は、この日包囲攻撃をうけ、陣地は馬乗り攻撃にあい、夜になって真壁に撤退した。
 西方正面では、この日一部の米軍が糸満北東の座波付近に出現した。
 第32軍は当初、南進する米軍は北正面に強圧をくわえるものと予想し、砲兵の主火力を第24師団正面に指向するよう準備したが、小禄の海軍部隊の戦闘とも関連し、戦闘は東部から展開した。このため軍砲兵隊は急いで東部に火力を指向し、混成旅団の戦闘に協力しなければならない状況となった。
 軍はこの日夕の戦線を具志頭、富盛、世名城、志田伯北西の小城、志田伯北西2キロの武富、志田伯北西2.5キロの108高地、饒波川、小禄、豊見城西1.5キロの松川、豊見城西2キロの具志の線と報告した。

画像2
島尻地区の陣地と各隊の配備状況:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 八原高級参謀の手記によると、この日の夜、摩文仁の新司令部に首里の司令部で司令部要員の世話係をしていた女性たちが訪れたそうだ。結局、長参謀長のはからいで首里司令部にいた女性たちは摩文仁の新司令部で収容することになったとのことだが、副官部には辻の妓女もいたという。八原高級参謀は彼女たちがどういう立場の女性で、何のために司令部にいたのか理解したが、最期に直面した人間の心理はわからなくもないとして何もいわなかったそうだ。国頭支隊の宇土支隊長も女性を連れていたといわれ、また慶良間諸島の「慰安婦」たちの中にも「将校の女」とされた女性がいたといわれる。首里司令部でも女性関係の話題は多々あり、最後の最後まで沖縄戦においては軍と性の問題がついてまわった。

画像4
日本軍の燃料集積所に砲弾が命中し炎上する 45年6月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-27-2】

重要政局に入る

 軍中央、中央政界では6日に最高戦争指導会議、8日に御前会議と重臣会議、9日より帝国議会開会という重要な政局にあった。
 6日の最高戦争指導会議を控えた5日、梅津参謀総長が大陸出張のため河辺参謀次長が同会議に出席することになっていたが、河辺次長は「予ノ希望スル所ハ現在ノ情勢ニ於テ『和平カ継戦カ』ノ問題ヲ議セントスルニ於テハ予ハ出席スルコト能ハズ」、「予ハ継戦ノ前提ニ於テ其ノ実行策ニ関スル議ニ参加シ得ルノミ」と徹底抗戦の意志を日誌に記していた。最高戦争指導会議で討議した内容がおよそ御前会議で確認されるような流れとなっているのだが、その最高戦争指導会議では主戦論が台頭したといわれる。
 そして8日の御前会議であるが、開会後に秋永総合計画局長が「国力ノ現状」を朗読した。そこでは生産力も輸送力も相当に厳しいものがあり、民心の動向も政府批判が逐次高まっているというものであった。鉄鋼生産が前年同期比4分の1程度といった具体的な数字も提示されているが、こうした率直な報告をうけて、鈴木首相は戦争継続の不可能を悟ったという。しかし会議の締め括りで鈴木首相は「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」として、「七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ征戦目的ノ達成ヲ期ス」とし、「マッシグラニ所信ニ向ッテ邁進スル」と覚悟を述べて閉会となった。
 戦争が終わるまで、これよりなお2ヶ月以上の時を要す。

画像5
沖縄の第海兵師団第8連隊の郵便局 戦場の郵便配達人は常に人気者だったといわれる 45年6月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号94-06-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・川田文子「渡嘉敷と座間味の『慰安婦』」(『季刊戦争責任研究』第87号、)

トップ画像

豊見城の海軍司令部壕に立つ慰霊碑:筆者撮影