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【沖縄戦:1945年3月5日】第32軍、第10方面軍に地上部隊と航空特攻部隊の増援を要請 現地軍と軍中央の齟齬のはざまで「捨て石」にもなれなかった沖縄

第32軍の度重なる部隊配備の変更

 第32軍の主力師団であった第9師団は、この年の1月初頭までには沖縄から抽出され、台湾に移動していた。その直後の1月22日、大本営は第9師団抽出の戦力の穴埋めとして、姫路の第84師団を沖縄に派遣する旨第32軍に内報したが、翌23日にはそれを取り消した。
 こうした情勢下、第32軍は前年1944年11月末ごろから何度目かとなる配備変更を行い、沖縄中北部に配備されていた独立混成第44旅団(鈴木繁二師団長)について、一部を除いて主力を知念半島へ移動させ、北飛行場(読谷)および中飛行場(嘉手納)の防衛を放棄し、首里の司令部の防衛線と沖縄南部へ戦力を集中した。
 戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』によると、部隊配備の変更と新配備は次のようであった。

1、中頭地区の独立混成第44旅団主力を知念半島の旧第62師団の防衛担任地区に配置する。
2、知念半島の第62師団歩兵第64旅団を第62師団の主陣地である首里防衛陣地に移動させ、第62師団の防衛を固める。
3、独立混成第44旅団の旧主陣地であった中頭地区には第62師団の一部を配置して、警戒にあたらせるとともに、同方面の防備が厳重であるように敵を欺く。
4、島尻方面の第24師団および国頭支隊の配備はおおむね変更なし。

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1945年2月以降の沖縄島の部隊配備:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 中頭地区に配置されることになった第62師団の一部としては、同師団の独立歩兵第12大隊(賀谷與吉大隊長)が選定された。同大隊は以後「賀谷支隊」と称されるが、米軍上陸後、賀谷支隊は南進する米軍を食い止めつつも徐々に南下し、第32軍の第1防衛線である嘉数高地に引きつける「遅滞戦闘」といわれる巧妙な作戦を展開することになる。
 他方で、度重なる部隊配備の変更は、各隊に相当の疲弊を生じさせた。例えば独立混成第44旅団の独立混成第15連隊(美田千賀蔵連隊長)は、沖縄到着以来、じつに7回にわたる配備変更をうけている。連隊はその都度陣地を構築し、資材を消費し、体力的にも消耗することにより、司令部への不信感を抱くことになり、士気も低下しつつあった。同連隊は精鋭とうたわれていたが、相次ぐ配備変更により、陣地構築作業も遅々として進まなくなっており、部隊長も隊員の掌握に苦しんだといわれる。
 また度重なる部隊配備の変更は、周到な陣地構築ができないこと、地形の把握ができないこと、射撃準備ができないことなど、戦闘力の低下も招くことになった。当然、急ピッチの陣地構築には多くの住民が動員されるが、それにより陣地の場所や構造など軍事機密を住民に把握されることになり、地上戦がはじまると軍は情報漏洩をおそれ住民の投降を禁止したり、敵視、憎悪、スパイ視を強めていくことになる。

北・中飛行場の放棄と地上戦力の増援要請

 こうした第32軍の部隊配備の変更、なかでも北・中飛行場の防衛放棄について、大本営や第32軍の直接の上級軍である第10方面軍(安藤利吉司令官)ならびに航空部隊は、相次いで第32軍に北・中飛行場を防衛するよう要請した。第32軍は、これについて現兵力では要請に応じられない旨を回答するとともに、この日「沖縄本島及び伊江島の地上兵備は主要航空基地の確保、制扼に不十分であるので本土もしくは台湾より一兵団の抽出を希望する」との旨を方面軍に電報した。
 第32軍の増援要請について、方面軍諫山春樹参謀長は黙殺する考えであったが、同軍井田正孝作戦主任参謀は中央の意図を知る上でも一応対応するべきと主張した。これまで第9師団の抽出や第84師団の派遣中止など軍中央と現地軍の行きがかり上、軍中央は発言のきっかけを見出すのに苦しんでおり、むしろ現地軍からの要請を待っているのではないのか、という理由であった。また方面軍隷下の第8飛行師団石川寛一参謀は、天号作戦に関する関係会議の雰囲気から、現地軍の正式の要請であれば軍中央も取り上げる考えだという発言を紹介した。

第32軍と方面軍、そして大本営の齟齬

 繰り返しとなるが、1944年の第9師団の台湾抽出や第84師団の沖縄派遣の中止など、大本営の作戦指導によって第32軍はその都度翻弄され、戦力を減少させていった。そのため第32軍司令部は、配備変更と部隊の再編制を行い、そのたびに部隊は作り上げた陣地を破壊し新たに作り直すなど無駄な労力を使っており、第1線部隊は疲弊し、軍司令部と現場の師団長が第1線部隊の運用のあり方をめぐって感情的な言い合いをするなどしている。1944年12月の弾薬輸送列車爆発事故という悲劇も、そうした度重なる配備変更のなかで発生している。
 1944年いっぱい、大本営はレイテ決戦に集中しており、沖縄はあくまでレイテ決戦のための第2線基地であった。レイテ決戦が断念されて1945年になると、大本営は本土決戦に気を取られ、沖縄を「捨て石」とし、充分な配慮をしていなかった。そうしたことから第32軍は、北・中飛行場の放棄を決めるが、大本営は北・中飛行場の確保を強く求めるなど、第32軍と大本営の意思は統一できていなかった。その上で戦力の増強などについても、第32軍と上級軍の第10方面軍や大本営はそれぞれ思惑が異なっていた。また第32軍はこの日、沖縄方面航空特攻作戦を行う陸軍航空部隊である第8飛行師団に対し、航空機を沖縄島に配置して特攻作戦を行う「貼り付け特攻」を要請したが、色よい返事はなかった。

「捨て石」にもなれなかった沖縄

 こうした沖縄現地と方面軍、そして大本営の齟齬は地上戦がはじまってからもつづき、大本営は米軍の沖縄島上陸後ただちに北飛行場が占領されたことにうろたえ、戦略持久を作戦方針としていた第32軍に総攻撃実施(攻勢移転)の指示を出す。第32軍はこれを拒むが、たびかさなる軍中央の攻勢移転の要請によって第32軍内部も動揺しはじめ、最終的には作戦方針を反故にして米軍へ総攻撃を仕掛け、大敗北を喫するなどした。
 沖縄戦が「捨て石」作戦であることは間違いないが、見方をかえれば沖縄は「捨て石」にもなることができず、現地軍と軍中央、あるいは陸軍と海軍のはざまで翻弄され、ただただ犠牲になっていったともいえる。

硫黄島の戦い

 硫黄島ではこの日、米軍の部隊交代がおこなわれ、戦況は小康状態となっていた。
 栗林兵団長は、米軍の攻撃は北地区に指向されるものとして、この機を利用し兵団直轄の東地区隊を北地区に転用し同地の防備を強化するとともに、戦車第26連隊基幹をもって東地区の確保を命じ、その他の諸隊は玉名山の混成第2旅団千田旅団長の指揮下に入れ、玉名山地区の確保を命じた。また標流木地区と北地区をあわせて北拠点とし、これを兵団長直轄指揮のもとあくまで確保し米軍の撃砕に努めるとした。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)

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第10方面軍安藤利吉司令官:Wikipedia「安藤利吉」