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【沖縄戦:1945年6月13日】「彼我攻防ノ均衡正ニ破レントス」─摩文仁防衛線の危機 米軍偵察部隊が久米島に上陸、住民3名を拉致─鹿山隊による住民虐殺の端緒

13日の戦況

 摩文仁司令部右翼を守備する独立混成第44旅団正面では激戦がつづき、91高地正面、与座集落、122高地北側には逐次米軍が進出し、右翼戦線は危機に陥った。
 鈴木混成旅団長は第一線に兵力を増加し陣地の保持をはかったが、満足な火器がなく、特に対戦車砲がないため、米軍戦車の行動を阻止することができず、損害は刻々と増加していった。
 この戦闘で玻名城を死守していた特設第3連隊杉本連隊長以下部隊のほとんどが戦死した。また八重瀬岳方面を守備する混成旅団左地区隊と旅団司令部の連絡は断絶したままであった。
 この日午後には158高地付近まで米軍戦車が進出しはじめた。

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8日から14日までの島尻方面の戦況図 玻名城上の91.4高地が91高地のことか:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 第24師団が守備する摩文仁司令部左翼でも昨日に引き続き米軍の猛攻をうけ、歩兵第32連隊第1大隊が守備する国吉台付近では、糸満ー国吉道を前進してきた米軍戦車を砲撃により阻止したが、米軍歩兵約150名が国吉台地西側を迂回し、歩兵第32連隊第3大隊の守備をすり抜け、回り込むかたちで国吉集落に進入した。
 歩兵第32連隊第1大隊に配属され、国吉台地西端近くに陣地を構えていた独立速射砲第3大隊第2中隊第1小隊の小隊長であった廣瀬春義少尉はこの日の日記に次のように記している。

 今朝来糸満、國吉道ニ沿ヒテ歩兵約一五〇國吉ニ侵入膠着セリ 歩兵ハ之ト交戦中 戦車三輌ハ同街道ヲ國吉ニ向ヒ前進中 友軍野砲ノ集中射撃ヲ受ケ二輌擱坐セルモ砲塔射撃ヲ実施セリ 小隊ハ之ヲ射撃其ノ一輌ヲ顚覆セシメタリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 摩文仁司令部左翼の戦況については、八原高級参謀も戦後、次のように回想している。

 混成旅団の戦勢輓回に躍起となっている間に、大盤石と思った第二十四師団の陣地にも亀裂がはいり始めた。同師団は巧妙な砲兵用法と、果敢な挺身斬り込みにより、連日敵に甚大な損害を与え、六月十二、三日ごろまではむしろわが軍が敵を圧倒するの概があり、真に軍の中核兵団たるの実力を示した。蓋し首里戦線においては、第六十二師団がその堅固な既設陣地に拠り、意識的に中核兵団をもって任じ、天晴れなる戦闘をしたが、喜屋武陣地は、第二十四師団の縄張り区域であった関係上、今度はすでに衰えたりといえども、この師団が中堅たらんとするのは自然の勢いである。
 第二十四師団の態勢は、その右翼が八重瀬岳方面の崩壊に巻き込まれ、なんとかして弥縫せんとする焦燥より崩れ始めた。軍および第二十四師団の懸命の努力にかかわらず、飯塚大隊は前進機を逸し、八重瀬岳の奪回は絶望に帰せんとし、右翼海岸方面に増加した独立歩兵第十三大隊も、隊長原大佐の戦死とともに、秋の木の葉の如く散り果てた様子である。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)
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大破した那覇刑務所を眺める海兵隊員 45年6月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-19-2】

 与座岳や大里付近でも終日激戦となり、歩兵第89連隊および工兵第24連隊などは善戦して米軍に多大の損害をあたえたが、大里付近には米軍の一部が進出した。
 第24師団雨宮師団長は歩兵第32連隊の左の真栄里地区に師団予備であった歩兵第22連隊(第3大隊欠)を配置し、歩兵第32連隊の担当地区を縮小させることにより防衛力を高めた。
 なお、この日、摩文仁司令部壕は米軍機による焼夷弾の攻撃をうけた。軍はこの日の戦況を次の通り報告している。

 球参電第七一九号(十四日零時発電)
 十三日地上戦況 陣地右翼正面ニ於ケル我守兵ノ獅子奮迅ノ勇戦ニ拘ラス無制限トモ思惟セラルル鉄量ノ前ニ遂ニ午後ニ至リ戦車数輌ヲ伴フ約四〇〇ノ敵ニ一五七高地ヲ強行突破セラレ彼我攻防ノ均衡正ニ破レントス
  [略]
 尚海岸ハ多数小舟艇ノ執拗ナル火砲迫撃砲ノ掃射ヲ受ク 又本十三日軍戦闘司令所附近ハ敵機ノ焼夷弾及「ガソリン」攻撃ノ為大部焼野トナリ軍獣医部長佐藤大佐ノ戦死ヲ初メ自然洞窟ノ兵員ニ相当ノ損害ヲ受ク
 海空傍若無人ノ敵ニ対シ全員切歯憤慨志気愈々軒昂敢闘中

(同上)

 「彼我攻防ノ均衡正ニ破レントス」の一言に戦線の危機がにじむ。なお海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官はこの日未明、司令部壕内で自決した。

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糸満の神社に設置された海兵隊の司令部 45年6月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-01-2】

米軍偵察部隊の久米島上陸

 久米島では連日にわたり米軍機の空襲がおこなわれたが、この日ついに米軍偵察部隊が上陸し、島北部の宇栄城、比屋定、北原などを偵察した。米軍は島民3人を拉致して情報を得ようとしたが、そのうちの1人が抵抗をしたため射殺、2人を拉致して話を聞いた(うち1人は言葉の問題から米軍は情報を得られず、もう1人の16歳の少年から島の状況や島民の動向、心情などを聞いたという)。
 久米島警防団のこの日の日誌には次のようにある。

 六月十三日 晴 水 当直 保久村昌栄
  [略]
一、夜前三時頃左ノ通リ三分団ヨリ通報ニ依リ直チニ各字ヘ伝達非常警戒ヲナス 山元二分団長其他 出頭警戒ノ同時ニ北原ヘ連絡員ヲ出ス 伝令(事件
字北原比嘉亀宅ニ敵兵ラシキモノ四五名十三日午後十一時頃電灯ヲ以テ侵入家人ガビツクリシテ「ローバイ」スルヲ戸主亀ハ引パラレ北「石アナ」道路方面ヘシツソウセリ、亀本人大声ニテ助ケヲ求メタリ其声ニ青年数名後ヲツイセキスレド銃機ヲ恐レ皆ニゲ出ス 其後ヲ青年月□ニテ後ヲツイセキナイテ中ナリ 三分団一団厳重ナル監視網ヲハル逐次通報
  昭和二十年六月十五日 午前二時発 三分団本部

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 久米島には鹿山正海軍兵曹長率いる海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(「山の部隊」や「鹿山隊」などと呼ばれる)が駐屯していたが、隊員は30名前後、装備も貧弱であり、鹿山は米軍よりもむしろ1万人からの住民を恐れ、住民と米軍の通謀を警戒した。

久米島の戦争と鹿山隊の虐殺について:NHK戦争証言アーカイブス

 鹿山隊は6月に入り「敵国『スパイ』ノ何時潜入スルヤ知レザル現状ニ在リ」と警戒していたところ、この日に米軍偵察部隊の上陸と住民の拉致事件が発生したため、住民の口から鹿山隊の動静が知られるとして、村の警防団本部宛に、集落付近の海岸や集落内を厳重に監視し、拉致された住民が戻った場合はただちに軍に引き渡すこと、米軍宣伝ビラなどはすぐに取りまとめて軍に渡すこと、これらに違反した者は銃殺するとの「達」を伝えた。さらに15日にも「達」を通達し、特に米軍が撒く宣伝ビラを所持する者は「敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」と命令した。以降、鹿山隊は「スパイ」として住民20名を次々に殺害していくことになる。

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鹿山隊が15日に久米島の具志川村・仲里村の村長・警防団長に通達した「達」:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006116】【ファイル番号009-06】
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鹿山隊の「達」の続き:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006117】【ファイル番号009-06】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

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発煙手榴弾とライフル攻撃でサトウキビ畑に潜む日本兵を掃討する海兵隊員 45年6月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-01-2】