【沖縄戦:1945年6月5日】小禄で激戦つづく 米軍、摩文仁まで約5キロの地点に迫る
海軍部隊の死闘激戦
小禄地区では海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)と米軍の死闘激戦が続いた。
豊見城地区では米軍が高安、高入端付近まで南下したため、海軍部隊はそれ以上の南進を阻止するため、平良付近に増援部隊を派遣したが、米軍は陣地構築に集中し同方面の戦線の動きは活発ではなかった。
小禄地区では米軍は軍用機の爆撃の支援の下、戦車70両、兵員1000名以上の米軍部隊が猛攻をくわえ激戦となった。海軍部隊は挺身斬込みで応戦した。
5日の小禄、豊見城方面の戦況図 赤線が米軍の進出ライン 緑の枠が海軍部隊の戦闘指揮所と司令部:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より
海軍沖方根はこの日の戦況を次のように報じている。
沖根連合陸戦隊戦闘概報第五四号 五一二三八番電
[略]
六月五日陣前二五〇米ニ於テ機銃ニ依リ三〇名殺傷、戦果迫撃砲ニ依ル人員殺傷約六〇名其ノ他陣前殺傷一〇〇名ヲ下ラズ 判明セル斬込隊戦果機銃六挺迫撃砲二門幕舎二破壊人員殺傷約一一〇名
二 東部真玉橋ヨリ侵入ノ適ハ逐次精力ヲ増加味方防戦ニ拘ラズ戦線ハ嘉数、根差部、高入端東南端ノ線ニ及ビシタメ西方糸満街道進出防止ノ為平良方面ニ増援部隊ヲ出シ之ニ備フ
(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
五日一七〇〇ノ戦況 〇五一七五二番電
一 根差部、高安方面ノ敵ハ陣地構築中ニシテ戦線ノ動キ活発ナラズ
二 小禄地区朝来ヨリ戦車七〇輌以上ヲ伴フ一、〇〇〇名以上ノ敵ハ飛行機ノ爆撃支援ノ下ニ攻勢ニ出テ彼我激戦中ニシテ逐次味方陣地ニ浸透シツツアルモ南西航空部隊ハ陣前ニ克ク防戦中ナリ
三 一七〇〇ノ戦線ハ垣花、赤嶺西端ヨリ朝島西都咲領[以上6字の意味・地名は判然とせずー引用者註]ヲ連ヌル線大ナリ
四 一三〇〇大嶺海岸ヨリ戦車一五輌歩兵(五〇)新ニ上陸セルモ内戦車二ヲ擱坐炎上セシメ人員ノ他戦車ハ撃退ス
(同上)
第32軍はかねてより海軍沖方根に南部撤退を命じていたが、海軍沖方根は昨4日、小禄、豊見城地区で最後まで戦うとの電報を発している。
これまでの作戦としては、小禄・豊見城地区を海軍沖方根が防備し、米軍による那覇港や小禄飛行場の使用を妨害することには大きな意味があった。もちろん現時点においても小禄、豊見城地区で海軍沖方根が奮戦することは、米軍の南進を遅らせる意味があるが、すでに軍の命運は決しており、第32軍牛島司令官としては海軍部隊を南部撤退させ、共に最後の戦いをおこなおうという考えであった。このため牛島司令官は大田司令官に再三に渡り南部撤退を呼びかけ、最後は親書を送って撤退を求めたが、大田司令官の決意はかわらなかった。第32軍はこの日夜、各方面に次のように報告している。
海軍ニ対シテハ那覇港及小禄飛行場ヲ極力制扼シタル後軍主陣地内ニ撤退セシムヘク既定ノ方針ニ基キ指揮指導ヲ加ヘアルモ海軍部隊ハ被包囲ナル同方面ノ戦況ハ撤退行動ヲ許サストナシ依然同地固守ノ方針ヲ堅持シ戦闘中ナリ
(同上)
旧小禄村には海軍小禄飛行場があり、海軍沖方根が駐屯していたことから、多くの住民が避難せず村に留まっていた。これにより住民が戦闘に巻き込まれた。小禄村の人口9723人のうち沖縄戦での戦死者は2917人だが、そのうちの32%となる920人が小禄村内で死亡している。実際に米軍は住民が避難する壕を「シラミ潰し」のごとく片っ端から手榴弾やガス弾で攻撃し、人々を殺害していった。
那覇郊外から小禄飛行場への着弾の状況を観察する海兵隊員 45年6月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-01-4】
南部撤退後の軍の状況
このころの南部の軍は、撤退してくる部隊を整理し新たな戦力化につとめていたが、各隊の移動や転属が繰り返され、小部隊ごとに分散して地下陣地で戦闘をおこなっていたため、兵力の把握は相当に困難だった。
軍はおよそこのころの兵力を約3万とし、その内訳を第24師団と同配属部隊で1万2000、第62師団と同配属部隊で7000、独立混成旅団と同配属部隊で3000、軍砲兵隊3000、その他5000というものであった。
しかし、これらの兵員数のうち正規兵や精兵は20%程度に過ぎず、そのほとんどが防衛召集者や後方部隊からの補充兵とされた。また中隊長以下下級幹部の損害は多大であった。ただし大隊長以上の損害は比較的少なかったため、辛うじて組織的な戦闘が継続できた。
兵器の損耗は甚大であり、小銃の保有は人員の3分の1ないし4分の1程度であり、歩兵自動火器は5分の1、歩兵重火器は10分の1という状況であった。ただ軍砲兵隊の損耗は比較的少なく、15糎加農砲2門、同榴弾砲16門、高射砲10門などが残存していた。また砲兵としては、野砲兵第42連隊の若干および独立混成第44旅団砲兵隊の10糎榴弾砲3門があった他、独立臼砲第1連隊は、予備の臼砲2門を万難を排し新陣地に携行した。
通信機材の損耗も激しく、東京や九州、台湾との連絡に支障をきたし、海軍沖方根の全滅までは海軍無線に頼った。ただし全体として戦場が狭小となったため、通信への依存度も減少したといわれる。
爆撃でできた穴に身を隠す海兵隊員 45年6月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-39-4】
5日の摩文仁周辺の戦況
与那原方面から南下した米軍は、同方面で退却攻勢をおこなっていた第62師団の撤退により、早くもこの日独立混成第44旅団正面の具志頭付近までに進出した。これにより具志頭の前進陣地や新城付近の警戒部隊は米軍による攻撃をうけた。
混成旅団の左地区隊長である平賀中佐はこの日、海軍丸山大隊の一部を東風平南東地区に派遣して警戒部隊とし、陣地占領掩護と各隊の撤退支援にあたらせた。
重砲兵第7連隊長樋口大佐率いる大里支隊(同連隊および船舶工兵第23連隊)は混成旅団の指揮下となった。樋口大佐はこの日、与座仲座に撤退してきたが、混成旅団長は大里支隊に糸数高地を根拠として米軍の背後を攪乱するよう命令した。
新城南方の警戒部隊と具志頭の陣地 もはや摩文仁の司令部まで4キロ~5キロ前後のところに米軍は迫っていた:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より
6月5日ごろの第32軍の南部の配備図 摩文仁の軍司令部を中心に、右翼(北東側)に独立混成第44旅団、正面(北西側)に第24師団、左翼(西側)に第62師団が配備された:同上
久米島の戦争
このころ久米島では連日にわたり米軍機の爆撃や機銃掃射がおこなわれた。6月13日に米軍の偵察隊が上陸し、さらに26日に米軍部隊の上陸がおこなわれるが、こうした米軍の久米島上陸作戦の一環として連日にわたり空襲がおこなわれたと思われる。
久米島には鹿山正海軍兵曹長ひきいる海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(鹿山隊、「山の部隊」などといわれる)が駐屯していたが、鹿山隊は住民を「労務提供」といって強制的に働かせたり、「食糧調達」として食糧を強制的に提供させるなど、島を恐怖支配していた。
しかし実際の鹿山隊の兵員は30数人、まともな武器もなかった。鹿山隊長は米軍のことは当然ながら、むしろ約1万人からの島の住民が鹿山隊に逆らったり米軍になびいたりすればひとたまりもないとおびえていたと思われる。このため島の防諜態勢の強化につとめ、米軍偵察部隊の上陸により米軍と住民の接触がはじまると、住民「スパイ」視を強め、「米軍のビラを所持していたものは処刑する」などと触れ回り、実際に6月末から8月にかけて20人もの島の住民を虐殺していく。
このころの連日の米軍は、確実に鹿山に多大な恐怖を与え、住民への猜疑心を強めていったと思われる。なお久米島には2人の陸軍中野学校出身の離島残置諜者も配備されていた。彼らも何らかのかたちで鹿山とともに住民虐殺に関与していたといわれる。
久米島における鹿山隊の蛮行はこれから触れていくことになる。
久米島での住民虐殺を語る鹿山正:琉球新報1972年3月25日
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『沖縄方面海軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
トップ画像
小禄半島の湿地帯を進軍する米海兵隊の散兵線 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号82-07-2】