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【沖縄戦:1945年6月4日】「敵ハ小禄方面ヨリ上陸開始」─米軍、小禄に上陸 「兵器ナキママ陸上戦闘ニ参加セシムル」─沖縄海軍部隊の最後の戦い

4日の戦況

 津嘉山陣地に次ぐ収容陣地である友寄付近の第2収容陣地はこの日、米軍の猛攻をうけ、東風平北東部の独立歩兵第21大隊は馬乗り攻撃をうける状況となった。同大隊はこの日夜、東風平付近から島尻南部に撤退した。
 東風平東4キロの大城北側150高地(現在の南城市大里大城の大城城跡か)の独立歩兵第14大隊は、この日10時ごろから400~500名の米軍により攻撃された。大隊は必死の抵抗を続け、米軍に多大の損害を与えて夕方には撃退したが、大隊も多数の損害をうけた。大隊は旅団命令によりこの日夜目取真に後退し、5日夜には米須に撤退した。

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那覇で105ミリ榴弾砲を設置する第6海兵師団第15連隊第2大隊砲兵D中隊 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-13-4】

沖縄海軍部隊の最後の戦い

 米海兵隊はこの日早朝、小禄飛行場(現在の那覇空港)の北部の鏡水、垣花地区(那覇空港の旧LCCターミナル付近)に上陸を開始した。
 同方面を守備する海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)大田司令官は米軍上陸について、「〇五〇〇垣花附近ニ敵上陸ヲ開始ス」、「本朝来敵ハ小禄方面ヨリ上陸開始全員士気軒昂此ノ敵ヲ撃滅セントス」と報じている。米軍上陸部隊は水陸両用戦車100輌という大兵力であった。 
 海軍沖方根としては、前日まで国場川南岸の真玉橋、根差部方面から南進する米軍の動きを警戒していたため、この日の米軍の上陸によって背後を突かれ、挟撃されるかたちとなってしまった。
 第32軍としては海軍沖方根も南部に撤退させ、陸海ともに最後の戦いをすることを計画していたが、海軍沖方根の南部撤退予定日であった2日に米軍部隊が国場川を渡河し豊見城の海軍司令部壕に迫り、ついにこの日小禄飛行場北部にも上陸してきたため、大田司令官は小禄、豊見城地区を死守することを決意し、関係方面に次のように打電した。

 〇四〇九一八番電
 佐鎮長官、時間、聯合艦隊司令長官宛
 第三十二軍ハ六月二日〇九四〇各部隊喜屋武半島南部ヘノ兵力集中行動ノ目的ヲ達成セリ 此ノ間海軍部隊ハ小禄地区ヲ拠点トシテ陸軍部隊輸送ノ支援ニ任ゼリ 第三十二軍ハ六月二日以後小禄地区ニ残存セル海軍兵力ノ主力ヲ喜屋武半島ニ合流セシメントスル最初ノ方針ニ従ヒ当方亦着々準備中ナリシ処二日夕刻ヨリ敵ノ進攻急ニシテ眞玉橋、嘉数、根差部□ニ於テ予備隊(槍部隊)ノ大部ヲ戦闘ニ参加セシムルノ情況トナリ更ニ四日早朝小禄地区海正面ヨリ敵上陸開始ノ為激戦ヲ展開スルニ至リシ為遂ニ陸軍部隊ニ合同不可能ノ状態ニ至レリ
 右事情ニ依リ海軍部隊ハ最後ノ一兵ニ至ル迄小禄地区ヲ死守セントス 本職ハ三日司令部ヲ小禄第九五一空戦闘指揮所ニ移転作戦指導中

※ □は判読不能

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 海軍沖方根は米軍上陸部隊に対し機銃や迫撃砲で迎撃して一定の損害を与えたが、米軍の上陸南進を阻止することはできず、米軍は戦況図の6月4日の線まで進出した。夜間に入ると斬込隊を編成し、米軍陣地への挺進斬込みを繰り返した。なお大田司令官は海軍司令部壕から赤嶺の第951海軍航空隊小禄派遣隊(護部隊)の戦闘指揮所まで前進し、指揮をとった。

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4日の小禄方面の戦況要図 紫線が米軍進出線 緑枠は主な地名:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 この日の戦闘について大田司令官は次のように報じている。

 沖根連合陸戦隊戦闘概報第五四号 五一二三八番電
一 六月四日〇五〇〇水陸両用戦車約一〇〇兵員約六〇〇名小禄(鏡水)附近ニ上陸開始、機銃迫撃砲等ヲ以テ之ヲ邀撃猛射ヲ与ヘ尚北明治橋修理中ノ敵ニ対シテモ猛射ヲ加フル等撃退ニ努メシモ敵ハ逐次浸透一八〇〇戦線概要概ネ当間、安次嶺、気象台前、糸満街道以西ニ及ベリ
  夜間各隊全力ヲ挙ゲ挺身斬込ヲ決行セリ 尚鏡水海岸砲台員ハ陣前一〇米ニ於テ敵兵約四〇名ト交戦二〇名ヲ殺傷
  [略]

(同上)

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小禄に上陸する米海兵隊 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-39-2】

海軍沖方根の構成と兵力

 海軍沖方根の編成については不詳なところも多く、米軍来襲により各隊再編成され錯綜している部分もあるが、おおむね

・海軍沖縄方面根拠地隊
・海軍佐世保軍需部那覇支部
・運輸隊
・照空灯部隊(吉田隊)
・海軍通信所
・巌部隊(南西諸島航空隊)
・護部隊(第951海軍航空隊小禄派遣隊)
・礎部隊
・山根部隊(第226設営隊)
・勝田大隊
・福田大隊
・丸山大隊

などから編成されていたといわれる。その他にも震洋隊や魚雷艇隊、先島諸島や奄美諸島に配備されていた部隊などがあった。また25ミリ機銃を装備した防空隊(中村防空隊)は陸軍第21野戦高射砲隊司令官の指揮下に入ったり、また海軍砲台も沖縄洋上の米艦攻撃などの都合から陸軍の指揮下に入るなどした。

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45年4月ごろの海軍部隊の配置図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 いずれにせよ大田司令官が総指揮をとった海軍沖方根の兵員は約1万人といわれるが、正規兵は少なく、兵員の3割から4割は防衛隊で構成されていたといわれる。その上で勝田大隊や丸山大隊など第32軍の命令で首里付近の戦闘に部隊を抽出しており、相当に兵力が減少していた。
 さらに海軍沖方根は陸上戦闘用の武器も少なかった。兵器の状態について海軍電報は次のように報じている。

作戦緊急  発 九五一空(小禄航空基地)
  [略]
二、優秀ナル搭乗員多数ハ随身兵器ダニナキママ陸上戦闘ニ参加セシムルノ已ムナキニ至リタルヲ遺憾トス然レドモ全員現在兵器ノ転用活用試製兵器ノ考案ニ没頭苦心ノ結果之ガ完成ヲ見之ヲ以テ最後迄敢闘ノ予定ナリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 部隊に兵器のないまま陸戦に突入することになり、兵器を転用したり、また試製兵器の考案に苦心しているが、ようやくこれが完成したなどとある。実際、米軍上陸部隊を迎え撃った機銃は、もともとは戦闘機の機銃を外して陸地に設置したものであり、命令の誤解にともなう撤退と復帰により移動の難しい重火器は破壊しすでになかった。さらに携行用の武器も充分ではなかった。小銃は各隊3分の1程度であり、上掲の〇四〇九一八番電に「槍部隊」とあるように、物資運搬用の鉄製のレールを切り出し木にくくりつけた槍による突撃と、急造爆雷を抱えた事実上の自爆攻撃で米軍に立ち向かわざるをえなかった。なお山根部隊には多くの動員された朝鮮半島出身の軍属などもいたといわれる。

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小禄に上陸した兵士と陸揚げされる補給物資 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-19-4】

陸軍部隊と海軍部隊の交流と軋轢

 第32軍と海軍沖縄方面根拠地隊は陸海軍として同じ日本軍であり、共に沖縄に配備されているといっても、基本的にはまったく別の組織である。陸海軍は沖縄現地で協定を結び、作戦の統一性を確保したり、陸軍将校を海軍部隊に参謀として送り、連絡事務にあたらせ、また陸軍の会食に大田司令官を招くなど、陸海軍首脳は連絡と交流に努力した。
 このように牛島司令官は大田司令官に気を遣い、大田司令官は牛島司令官の高潔な人格に感銘をうけたともいわれるが、やはり佐官以下のレベルでは両者の軋轢は存在したようだ。
 海軍部隊が誤解に基づいて南部撤退してしまったとき、陸軍の若手参謀は海軍部隊の苦境に思いを寄せることなく「憤然」とした様子で無慈悲に小禄、豊見城への復帰を命令したといわれる。作戦上は当然のことわりなのかもしれないが、海軍部隊としては小禄、豊見城への復帰は「懲罰」「いじめ」のような感覚をうけたのかもしれない。実際に海軍部隊の捕虜(少佐)は米軍の取り調べに対し、この撤退と復帰で相当の犠牲者を出したと証言している。
 その他にも海軍部隊は陸軍全体の南部撤退作戦に相当な兵員を割いて協力しており、全体としては陸軍の作戦通りに動いているという感覚があったようだ。陸軍に割いた兵員は陸軍の指示通りに撤退するわけであり、小禄、豊見城の一部部隊が事前準備のために若干早く撤退したことを厳しく「批判」されたことは、海軍部隊としては非常に気分を害し、これによって陸海軍の関係は破綻してしまったという海軍部隊の捕虜(別の少佐)の証言も残っている。

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泥濘のなか食糧や弾薬を積んだロバが首里方面へ向かう 海兵隊は首里城を制圧したが、その後の補給の困難に苦しんでいた 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-21-3】

機密戦争日誌より

 この日の大本営機密戦争日誌には次のように記されている。

 昭和20年6月4日 月曜
  [略]
一、午前十時ヨリ内閣顧問一同ニ対シ戦況説明ヲ行フ
   沖縄戦況ノ見透
   沖縄ヘ兵力前送出来サリシ理由
   敵ノ企図及其ノ時機
   必勝ノ方法
二、午後三時ヨリ内閣ニ於テ全権委任法ノ審議アリ政府ハ議員ニ迎合シテ修正セルヲ以テ反対ノ意志ヲ表明ス
  議会ニ於ケル総理演説ヘノ要望ニ関シ陸海軍一体ヲ述ブベキヤ否ヤニ関シ両論アリ軍事課長及軍務局長ノ反対ニテ中止ス
  陸軍大臣演説要旨ヲ立案世紀ノ大演説ヲ行フニ決ス
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 沖縄の戦況について内閣顧問一同に説明をおこなったと記されているが、その後に全権委任法への言及がある。すなわち陸軍は、9日より帝国議会が開会されるという政治スケジュールのなかで、全権委任法の成立を目指したが、鈴木内閣が議員の反対に「迎合」して法案内容を修正したので(しようとしたので)反対の意志を表明したということである。

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負傷した海兵隊員 衛生兵から血漿輸血を受けている 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号98-10-4】

新聞報道より

 この日の沖縄の戦況について、大阪朝日新聞は次のように報じている。

那覇・首里へ敵侵入 敵、我が堅陣を猛攻
 全線急迫を告ぐ
  守備隊勇戦敢闘中
沖縄本島における地上戦闘は依然困難な状況に推移し、目下の戦況は全線にわたり極めて急迫を告げるに立至っている、敵は数日来第一線に全兵力を投入し、遮二無二わが堅陣の突破を企図して猛進撃を続行している、すなはち五月三十一日には敵部隊は那覇市内に侵入、さらに首里城址にも突入し来るといふ容易ならぬ様相を示し、また東海岸の与那原付近から南下中の敵部隊の一部は同地南方三キロの稲福附近に侵出するにいたった、わが守備部隊は各所において浸透し来る敵部隊に果敢な反撃を加へ、敵の浸透を阻止せんとして勇戦敢闘中であるが敵の戦意は旺盛であり、わが部隊は苦戦を続けている
  [略]

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
百七十機で連襲
 鹿児島、宮崎の基地銃撃
沖縄の基地から進発したものと判断される敵小型機は二日に引続き三日またも約百七十機で南九州に来襲した、即ち午前八時乃至九時頃に間にグラマンF4F、同F6Fなど約百七十機が四、五機または十数機宛の十四編隊に分れ鹿児島湾口及び志布志湾附近から逐次侵入、薩摩、大隅両半島および宮崎県南部を行動、同地域の主として航空基地に対し銃爆撃を加へて午前八時半乃至九時半頃の間にそれぞれ宮崎、鹿児島両県海岸から南方洋上に脱去した

(同上)

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第1海兵師団第1連隊の海兵隊員によって保護された女性 4日間何も食べていなかったそうだ:沖縄県公文書館【写真番号79-04-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・沖本富貴子「沖縄戦の朝鮮人 : 数値の検証」(沖縄大学地域研究所『地域研究』第21号)

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小禄半島に上陸する米軍水陸両用戦車 45年6月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-08-1】