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【沖縄戦:1945年3月2日】Love Day といわれる日─米軍、ガダルカナル島で沖縄上陸演習 ガダルカナルと沖縄での日米両軍の残虐行為

ガダルカナル島での演習

 沖縄上陸を目指す米海兵隊の第3上陸作戦部隊はこの日から7日まで、ソロモン諸島のガダルカナル島で沖縄上陸演習を実施した。既に数か月前からガダルカナル島などの島々には米海兵隊が集結しており、演習をおこなうなどしながら沖縄上陸の日(米側呼称:Love Day、L Day)に向けて備えていた。また米陸軍はレイテ湾で Love Day に向けて演習をおこなうなどしていた。
 沖縄戦を戦った米第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊の隊長を務めたフランク・ヘイグラーさんは、ガダルカナル島で数か月訓練をおこなったのち、沖縄戦に送り込まれたと証言している。

戦争が始まったころ、私は大学生で、私は訓練部隊にいました。そして任務につくことになり、戦艦ネバダに配属されました。真珠湾攻撃で沈んだ戦艦です。艦は私が入隊したときには修理されていました。そして我々は、アッツ島の戦いのためアリューシャン列島に向かいました。アッツ島の戦いを終えると、大西洋に向かいました。ノルマンディー上陸に備えるためです。私はノルマンディー上陸作戦の部隊にいましたが、1944年6月6日に海兵隊の幕僚のための学校に異動となりました。そのあと太平洋に派兵され、新造の第6海兵師団第22連隊の第3大隊本部に配属されました。私たちはガダルカナル島で次の作戦のために2、3か月訓練をしました。それが沖縄作戦だったのです。

(フランク・ヘイグラーさん:NHK戦争証言アーカイブス)

ガダルカナル島の戦いと沖縄戦

 日本軍はオーストラリアとアメリカの連絡線を遮断するため、ニューカレドニアやフィジー、サモア諸島の攻略を企図していたが(FS作戦)、そのための前進基地としてガダルカナル島に飛行場を建設していた。しかし飛行場建設直後の1942年8月に米軍が上陸し、ガ島の戦いがはじまる。結局、日本軍は2万1千人もの戦死者はじめ多数の損害を出し、ガ島から撤退する。
 ガ島の戦いにおいて、日本軍は傷病兵の「処置」、すなわち軍医や衛生兵が傷病兵を殺害したり、自殺に追い込むなどの行為をおこなった。また米軍による日本兵の遺体損壊などもあったといわれているが、これら日米両軍の非人道的行為や残虐行為は、沖縄戦でも繰り返される。

人事異動による第32軍幹部の沖縄転出が相次ぐ

 このころ、第32軍の師団長、連隊長、大隊長、司令部幕僚など重要な役職者の人事異動がおこなわれ、軍幹部が沖縄から転出している。特に地上戦の主力部隊となった第62師団本郷義夫師団長の後任の藤岡武雄中将や、歩兵第22連隊田中幸憲連隊長の後任の吉田勝中佐の着任は、米軍上陸の2週間前というものであり、彼らは部隊の掌握や地形の認識など不充分なまま地上戦に突入していった。定期的な人事異動といっても、一大決戦を直前に控えた軍幹部の異動については、後年、第32軍八原高級参謀も訝しがっている。

硫黄島の戦い

 米軍は事前の準備射撃の後、朝8時より攻撃再開した。元山飛行場北西部の大阪山、眼鏡岩の反斜面陣地を確保し、地雷原や砲迫撃をもって前進する米軍に多大の損害を与えたが、高千穂峡北東側の砲兵群はすでに火砲一門だけ、弾薬もわずかとなり、北地区に撤退した。午後になると米軍は大阪山、眼鏡岩北嶺を越え、高千穂峡東西の線に進出した。また元山飛行場北東部の二段岩付近の守備隊も全滅し、米軍に突破されるに至った。
 摺鉢山地区から撤退した水野庄八軍曹以下十余名は、所属部隊長であった長田謙次郎大尉の仇を討つため血書をもって志願し、長田決死隊(長田挺進斬込隊)と称してこの日米軍占領地帯に進出、5日までの間に米軍拠点を爆破するなど斬り込みを展開し、帰還した。長田決死隊の活躍については、栗林兵団長から感状を授与されるほどの活躍であった。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉
・米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)
・吉田裕『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』(岩波新書)
・吉田裕『日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)

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ガダルカナル島の海岸 奥に見えるのは座礁する輸送船「鬼怒川丸」:時事ドットコムニュース「終戦特集~太平洋戦争の歴史~ガダルカナル島の戦い」