見出し画像

【沖縄戦:1945年5月14日】「地獄の一週間」─シュガーローフ争奪戦はじまる 「我戦力逐次低下シ敵ハ那覇北側ニ侵入シツツアリ」─首里防衛線の崩壊せまる

シュガーローフ・ヒルの激戦

 首里司令部西方では早朝から米軍の攻撃がおこなわれ、特に安里52高地(慶良間チージ、シュガーローフ・ヒル)方面で激戦となった。夕方にはシュガーローフ北方約200メートルの40メートル閉鎖曲線高地付近(現在のサンエー那覇メインプレス付近か)は米軍に占領されたが、守備隊は陣地を確保した。薄暮下、米軍の一部はシュガーローフに東側に取りついたものの、翌15日夜明けごろ、守備隊は迫撃砲を集中させて撃退した。
 シュガーローフは現在のゆいレールおもろまち駅付近の給水タンクがある小高い丘だが、付近には現在の真嘉比小学校裏側の高台(真嘉比の大道森、米側呼称:ハーフムーン・ヒル、もしくはクレセント・ヒル)および現在の安里3丁目付近の高台(馬蹄山、米側呼称:ホース・シュー)があり、この三つの丘がそれぞれ連携することにより首里司令部西方の鉄壁の防衛陣地となっていた。

画像1

シュガーローフ、ハーフムーン、ホースシューの位置関係:特集「島は戦場だった 地獄の丘シュガーローフの戦い」(琉球朝日放送報道制作局)

 シュガーローフをめぐっては、約一週間にわたって日米が争奪戦を繰り広げ、11回も攻守が入れ替わるという激戦になった。そのため、その争奪戦は「地獄の一週間」といわれ、シュガーローフは「血塗られた丘」とまで呼ばれる。
 米兵はこのころの戦場の恐怖と劣悪な環境を「地獄の汚物のなかに放り込まれた」とまで表現しているが、凄惨な戦闘がつづくなかで、シュガーローフの戦いのころより、体を震わせて泣き続けるといった運動神経の麻痺や涕泣、銃の乱射、排泄物の垂れ流し、意味不明の言葉を叫び続けるなどの戦闘神経症を発症させる米兵が目立ちはじめる。日本軍を追いつめていた米軍であったが、末端の米兵たちも追いつめられていたことがわかる。

沖縄県那覇市 シュガーローフ:NHK戦争証言アーカイブス「戦跡と証言」

 また戦闘の激化にともない、日本兵への憎悪が異常に増していき、投降した日本兵や乳幼児を含む民間人の虐殺や、日本兵の遺体の金歯を抜いたり耳をそぐといった米兵による残虐行為も頻発した。
 なおシュガーローフなど首里司令部西方の攻撃を担当したのは、米海兵隊が主であった。米海兵隊は沖縄北部を制圧した後、中南部戦線に転進して首里司令部西方の攻撃を担った。一方で沖縄戦に従軍した米海兵隊、特に第6海兵師団の粗暴さは顕著であり、彼らは戦闘を展開した沖縄北部で婦女暴行を繰り返していた。
 シュガーローフの戦いのころより目立ちはじめる米軍の残虐行為や戦闘神経症については、これ以降少しずつ見ていきたい。

沖縄戦時、沖縄北部で仲間が女性住民を強姦したと話す元海兵隊員:NHK戦争証言アーカイブス「米兵が起こした婦女暴行」

首里司令部防衛線の整理

 沢岻高地を制圧した米軍はこの日、沢岻南側の大名高地を北西から攻撃し、大名高地中腹まで一時進出したが、守備隊は逆襲しこれを撃退した。
 沢岻の洞窟陣地に籠って抵抗をつづけていた歩兵第64旅団本部は第62師団長の指示により翌15日未明に首里北側地区に撤退した。なお歩兵第64旅団本部の撤退は、八原高級参謀の回想では14日のこととなっている(八原とその他の戦史には若干の日付の異同がある)。独立歩兵第15、第21、第23大隊や第2歩兵隊第3大隊などもこの日夜、沢岻から首里北側地区に撤退した。
 第32軍は沢岻高地の失陥にともない、首里司令部北方の防衛線を平良町、大名、末吉の線に引き下げた。
 前田集落南側地区では、この日も戦闘が続いた。第62師団輜重隊杉本隊長は、付近の部隊が戦意喪失か連絡ミスか何かよくわからないが突如後退したことを知り慨嘆したが、部隊としては現陣地を固守し玉砕することを決意した。師団長に対しては最後の報告書を記し、鷹野副官を師団司令部に派遣した。
 師団司令部に到着した鷹野副官は、すでに輜重隊に撤退命令が下達されていることを知り、首里北側への撤退命令を受領して輜重隊に帰還した。これにより輜重隊杉本隊長は首里北側への撤退を開始するが、無事に撤退できたのは約60名程度であった。第62師団輜重隊が前田付近の戦闘でうけた損害は、輜重隊将校以下約300名、防衛召集兵約250名の死傷であり、ほぼ壊滅状態であったといえる。
 歩兵第32連隊主力はこの日、前田南側地区で米軍と激戦となり、左側経塚方面からも米軍の攻撃が激しく、第二線の伊東大隊は左側からの米軍の攻撃を阻止するのに集中するような状況であった。
 同連隊長はこの日夕方、第24師団として首里周辺に兵力を集中させる、第32連隊は師団予備として赤田町および石嶺南側地区に兵力を集結すべき旨の師団命令を受領したため、夜に入って部隊を同方面へ撤退させた。
 首里司令部北東および東方では、歩兵第22連隊の陣地である石嶺東側の130高地、140高地、150高地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ、守備隊は奮戦したものの、150高地南側の一角は米軍に占領された。
 運玉森方面では、運玉森北西800メートルの100メートル閉鎖曲線高地頂上の争奪戦となり、その一角が米軍に占領され、同高地と運玉森の中間地点にも米軍が進出した。
 この日、第32軍は「我戦力逐次低下シ敵ハ那覇北側ニ侵入シツツアリ」と報じている。那覇北側との表現から、これは首里司令部西方のシュガーローフの戦いを指していると思われるが、首里司令部北方の防衛線の引き下げも含め、首里防衛線の全線の崩壊が間近に迫りつつあり、第32軍は危機感をつのらせていた。

画像2

ヘルメットに受けた弾痕をウィクストロン軍曹に見せるダニエルソン一等兵 45年5月14日:沖縄県公文書館【写真番号02-13-1】

海軍部隊の戦闘概報

 海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官は12日からこの日までの海軍部隊の戦闘を次のように報じている。

 戦闘概報第四八号(一四一五三三番電)
十二日
一 北正面ノ戦闘情況中西側地区ノ敵進出次第ニ増加□□[判読不能]首里西方泊附近ニ戦車ヲ伴フ敵上陸シ来リ海軍部隊ハ第三十二軍ノ命ニヨリ此ノ敵ニ備フル為陸戦隊三箇大隊ヲ首里西方ニ、又一箇大隊ヲ東岸与那原方面ニ進出セシムルニ決シ一部進出ヲ開始
  [略]
十三日
一 陸戦隊三箇大隊一三三〇国場与那原方面ニ進出完了
二 真嘉比方面ノ敵ニ対シ陸上挺身斬込隊二〇組六四名ヲ出ス
  [略]

 戦闘概報第四九号(一四二三一七番電)
一 天久、真嘉比方面ノ陸上戦闘ハ漸ク熾烈化シ敵艦艇ノ第一線陣地及那覇、小禄地区ニ対スル射撃モ益々強化セラレツツアリ午前小禄、那覇正面ニ対シ上陸用舟艇十数隻遊弋セルヲ以テ警戒ヲ厳ニセリ 友軍陣地ニ対スル敵ノ来襲機ハ延七一機ナリ
二 昨夜天久方面ニ進出セル挺身斬込隊中二二〇〇迄ニ帰還セル者五名 戦果重機銃又ハ速射砲破壊一、軽機又ハ重機一、人員殺傷一六名被害調査中

※戦闘概報第49号が14日の戦闘の概報と思われる。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

画像3

那覇侵攻の日に最初に捕虜になった男性 45年5月14日:沖縄県公文書館【写真番号75-29-1】

陸海軍における航空作戦への温度差

 4月25日、海軍総隊司令部が設けられたが、連合艦隊司令長官と兼務する海軍総司令長官は天皇に直隷し、作戦に関し各艦隊、鎮守府、警備府、商港警備府、海上護衛総司令部の各長官を指揮することになっていた。
 豊田海軍総司令長官はこの日、海軍総隊の全航空兵力を沖縄方面に投入することを電令し、第10方面軍、第32軍、第8飛行師団に通報した。
 海軍航空兵力の全力投入は、九州、南西諸島の航空兵力を航空特攻を中心に投入するという天一号作戦の当初の計画とは異なり、全力投入により勝機を見出そうとする海軍中央の意図のあらわれといわれている。

 GB電令作第二八号(一四一一三六番電)
一 敵機動部隊ノ九州方面策動竝ニ沖縄方面敵軍ノ動向ニ鑑ミ「天」作戦ノ時機ハ茲数日ニ決スベシ
二 海軍総隊ハ指揮下航空兵力ノ全力ヲ投入果敢ニ勝機ノ打開ヲ策セントス
  [略]

(上掲戦史叢書)

一方で陸軍はあくまで本土決戦を重視し、沖縄作戦に対する航空兵力の投入には限度があるという考えであったようだ。
 海軍総隊草鹿龍之介参謀長は、第10方面軍諫山春樹参謀長宛てに次の電報を発し、第8飛行師団に沖縄方面航空作戦への全力協力を促した。

第一四一一四一電
 敵機動部隊ノ九州方面策動ト関連シ沖縄方面ノ戦局ハ球参電第三三一号ノ通ニ鑑ミ海軍総隊指揮下航空兵力ハ海軍総隊電令作第二八号ノ如ク指導セラルルニ就テハ第八飛行師団全力ヲ以テ密ニ協力方配慮ヲ得度

(上掲戦史叢書)

 また海軍はこのころ、沖縄への逆上陸作戦を研究していた。昨13日付大本営機密戦争日誌には「海軍軍令部課長以下沖縄作戦ノ成果ト将来戦況好転ニ処スル奪回作戦ノ一構想ニ付テ研究案ヲ陸軍部ニ紹介」と記されている。ここでの「奪回作戦の一構想」の詳細は不明ながら、海軍は駆逐艦で北、中飛行場方面に逆上陸し、一時的に米軍が両飛行場を使用できなくし、二個師団の兵力を沖縄に上陸させるといった構想をもっていたといわれる。また保科軍務局長が逆上陸のため小型船の確保に務めたり、大西軍令部次長が機帆船による逆上陸を研究するなどといったこともあった。
 以前、海軍総隊草鹿参謀長による第32軍への電に沖縄への「駆逐艦緊急輸送計画」があり、これにより本土から救援部隊が沖縄に駆けつけるという戦場のデマとなっていったことを取り上げたが、そうした計画は実質的に不可能であり、事実として実施されなかったが、構想といった程度では存在していたことは間違いなさそうだ。
 ただし、それは沖縄救援といったようなものではない。保科軍務局長が米内海相に軍務局長就任の挨拶に赴いた5月15日、米内海相は「昭和天皇は本土決戦前での早期講和の意志がある。そこで沖縄へ一個師団増派し、沖縄の奪回ができるかどうか研究して欲しい。それができなければ講和に持ち込みたい」という趣旨の発言をしたそうだ。早期講和となる前に一戦果をあげたい、そして有利に講和したい、あるいは講和をせず戦争を継続したい、といった意味にとれる。沖縄逆上陸はそうした文脈によるものであることはくれぐれも間違ってはならない。

画像4

沖縄近海で日本軍特攻機に突入された空母エンタープライズ 45年5月14日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-21-4】

新聞報道より

 大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況を次のように報じている。

那覇市外で激戦我が守備隊敢闘
 十二日来紛戦状態
沖縄本島方面においては敵は十一日に引続き十二日も全面的にわが陣地に猛攻撃を続行中である、わが守備部隊はこれを陣前に邀撃し各地に激戦を展開中である、経塚以東ではわが守備部隊は敵の猛攻撃にも拘らず依然陣地を確保し、十二日朝から日没まで反復繰返される敵の猛攻撃を陣前に撃破しつつある、経塚以西、沢岻北部高地に対しては敵は有力部隊をもって反復来襲するとともに戦車四、五十輌および歩兵約二千の兵力をもって真嘉比、泊を結ぶ線一体の地域においてわが陣地内に滲透を企図しつつあるために十二日日没ごろ沢岻北側、真嘉比北側、泊北方地区においては目下彼我紛戦中である、なほ沖縄本島および伊江島方面においては敵は現在陸上航空基地設定に狂奔中であるが、さる十日前後における偵察によれば、同方面的航空兵力は次の通りである
【北飛行場】 大型十数機(そのうちB29らしきもの二機を認めたが、これは不時着のものと見られる)中型機数機、小型機百機
【中飛行場】 小型機七、八十機
【伊江島飛行場】 整備は急速に進捗中であるが、いまだ基地として使用している様子は認められない右の如くさる十日前後におけるわが偵察当時沖縄島全体の敵在地機は合計二百機内外と見られるが、これが果して同島における敵兵力のすべてであるか、あるひは当時他方面に行動中の敵基地航空兵力があったかは不明である、わが航空部隊は十一日以来沖縄本島各飛行場に対し猛攻撃を続行しつつある

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

画像5

海兵隊前線から那覇の街を眺望するバックナー中将やシェパード少将ら米軍首脳部 45年5月14日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-34-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・同『大本営海軍部・連合艦隊』〈7〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(2005年5月25日)

トップ画像

シュガーローフ・ヒルと米軍戦車 中央の車両は物資運搬と負傷者後送用の水陸両用トラクター 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号91-10-2】