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【沖縄戦:1945年6月21日】「貴軍の奮闘により本土決戦の準備は完整せり」─陸軍中央の訣別電 日本軍の道連れのように南部へ連れられた朝鮮出身の軍属たち

摩文仁司令部への攻撃

 島尻地区各地で戦闘が続き、残存の各隊が最後の抵抗を試みるなか、米軍戦車は司令部壕のある摩文仁89高地まで進出してきた。
 第32軍司令部は真栄平宇江城の第24師団司令部と最後の連絡をおこない、各司令部ごとに「玉砕」することに決した。なお第62師団、独立混成第44旅団、軍砲兵隊の各司令部と軍司令部のあいだは徒歩で連絡をとっていた。

 米軍の前線部隊の先頭がこの入口[摩文仁司令部壕の入口]にとどいたのは、六月二十一日の正午ころだった。捕虜の中から一将校が出てきて、自発的に、もう一度、牛島中将に降伏勧告をしたいと、申し出て、米兵とともにおもむいたが、一行が壕の入口近くに集まったとき、突如、壕内で爆発が起こり、入口が内部から破壊された。
 摩文仁岳頂上の日本軍の抵抗は、ひときわ激しかった。
 米軍は、この頂上の日本軍を殲滅するために、その夜、火炎砲戦車で、五千ガロン近くのガソリンを使い果たさなければならなかった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 二十一日の戦況はいよいよ混沌としてきた。夜が明けるとともに、敵戦車群は、例の稜線を越えて摩文仁部落に侵入、さらに西北進して小渡付近を西面して防御する友軍の背後をも衝くに至った。
  [略]
 私は摩文仁高地が直接敵の攻撃を受けるのは時間の問題と思い、司令部洞窟の三つの出口のうち、最も弱点である参謀部出口の閉塞を命じた。幸い洞窟内に、爆破した岩石が堆積していたので、これを利用して通信所長の工兵中尉が、衛兵、通信手、当番兵等を動員し、深さ五メートルの阻絶を数時間を出でずして完成した。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 八原高級参謀の手記はどうも1日日付がずれているように見受けられるところもあるが、あるいは米軍側公式戦史にいう摩文仁司令部壕内での爆発と入口の破壊は、八原高級参謀の回想によるところの参謀部出口の閉塞と一致する可能性があるかもしれない。いずれにせよ、この日、米軍はついに司令部壕入口まで迫り、この日の戦況を軍は「敵ハ摩文仁南側軍司令部ニ近迫激戦中」と報じた。

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南部の激戦地である伊原村で発見された日本軍榴弾砲 軍砲兵隊は壊滅状態であったが、八原高級参謀の回想によると榴弾砲が数門残存し、最後まで抵抗を続けたとある 45年6月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-27-2】

大本営からの訣別電といわゆる「松代大本営」

 この日、陸軍大臣および参謀総長から牛島司令官宛ての訣別電が届いた。この訣別電の内容は判然としないが、八原高級参謀の回想によると、

 この夜、参謀総長、陸軍大臣連名の訣別電報を入手した。電文は、「第三十二軍が人格高潔なる牛島将軍の統率の下、勇戦敢闘実に三か月、敵の首将シモン・バックナーを殪し、その麾下八個師団に痛撃を加え……」に始まり、「貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり敵もし本土に侵攻せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」と結んでる。昨夜の方面軍司令官の感状に引き続き、今夜の電報である。両将軍はもちろん洞窟内将兵ことごとく満足である。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 というようなものであったという。
 ここにいう「本土決戦の準備は完整せり」について、いわゆる「松代大本営」(以下、煩を避けカッコをはずす)の建設工事と関連させる指摘がある。44年7月ごろに計画が策定されたといわれる松代大本営は、同年11月には発破作業が開始され、45年3月には本格工事命令が発令された(松代大本営の建設工事については、以下の記事を読んでいただきたい)。

 そして沖縄戦の組織的戦闘が最末期となる6月半ば、阿南陸軍大臣が松代大本営の現地視察をおこない、宮中でも侍従武官長が設備について木戸内大臣に連絡し、これをうけて宮内省総務局長が松代視察を命じられるなど、松代大本営は完璧ではないがある程度竣工が見込まれる状況であった。すなわち沖縄戦の地上戦における組織的戦闘の期間と「松代大本営」の本格工事期間はおよそ重なるのである。
 こうしたことから、21日に第32軍に届いた訣別電における「本土決戦の準備は完整」とは、松代大本営の竣工をいうものであり、本土決戦の準備の完了、すなわち松代大本営の竣工を待って第32軍の組織的戦闘が終焉し、牛島司令官および長参謀長が自決したともいわれる。
 もちろん沖縄戦が本土決戦のための「時間稼ぎ」であり「捨て石」であったことは間違いないが、松代大本営の建設と竣工のためのみの時間稼ぎとして沖縄戦があったと考えることはできない。しかし本土決戦戦略という大きな視点のなかで沖縄戦を見ていくにあたり、松代大本営の建設工事は視点として意識する必要はあるだろう。

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海兵隊第6師団に捕らえられた日本人 45年6月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-41-3】

バックナー司令官の戦死報告

 八原高級参謀の回想には、陸軍中央が発した訣別電には米第10軍バックナー司令官の戦死が記されていたが、バックナー司令官の戦死を知った司令部内は、まるで沖縄戦に勝利したかのように湧いたという。一方で牛島司令官は敵将の訃報に触れ沈痛な面持ちであり、歓喜する司令部内の面々に困ったような表情を見せたため、八原高級参謀は改めて牛島司令官の人格的高潔さを思い知ったと回想している。

 アメリカ第十軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグ・ニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無上の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は躍り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもの喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の面前で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。

(八原上掲書)
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バックナー中将の戦死した丘に建立された記念銘板 糸満市高嶺:沖縄県公文書館【写真番号17-29-1】

米軍、沖縄占領を宣言

 この日、米第10軍ガイガー司令官は沖縄の占領を宣言した。またチェスター・W・ニミッツ元帥は沖縄戦の終結を発表した。これをうけて米紙は一斉に「沖縄戦勝利」「沖縄陥落」「戦い終結」などと報じ、日本本土攻略に向けた戦略基地を確保したと伝えた。
 ニューヨーク・サン紙は21日付の記事で「米軍、82日間におよぶ沖縄島の激戦に終止符を打つ」「日本兵の損失9万人」などの見出しで、「これで米軍は日本本土からわずか325マイルの戦略基地を手にしたことになる」などと解説した。
 大本営は「日本軍ノ組織的抵抗全ク止ム」との米側の発表を確認している。こうした米側の沖縄占領宣言や戦闘終結発表、そして日本側の訣別電のやりとりなどから、21日をもって沖縄戦の組織的戦闘の終焉という見方もある。

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星条旗を立てる米兵たち 沖縄で掲揚された最初の星条旗だそうだ:沖縄県公文書館【写真番号09-06-1】

朝鮮半島出身軍属たちの沖縄戦

 沖縄戦において朝鮮半島より多数の朝鮮半島出身者の軍属が連行され、いわゆる「朝鮮人軍夫」部隊である特設水上勤務隊(水勤隊)に編入され、沖縄の港湾で軍需品の揚陸作業や特攻艇の泛水作業など過酷で危険な労働を強いられたことはこれまで繰り返し述べてきた。
 こうした朝鮮出身軍属により編成された水勤隊第102中隊、および第104中隊の2個小隊は、最後は沖縄での米軍との地上戦に兵士として動員させられた。
 第102中隊は米軍の沖縄上陸後、前線への弾薬運搬に従事させられ、砲爆撃で命を落とす者が続出したという。第32軍の首里放棄・南部撤退により具志頭の新城への物資後送にあたったが、そこにはすぐ米軍が接近したため、糸満の山城に移動した。このころには米軍の砲爆撃がすさまじく、部隊は散り散りになっていき、点呼さえなくなっていったという。そして20日およびこの日、部隊は南部で全滅した。
 第104中隊も米軍上陸直前に南風原の山川に移動し、地上戦後は首里方面での戦闘に参加したが、第32軍の南部撤退以降は真栄平、新垣、山城での戦闘に従事、6月22日には総員敵陣への斬込みを敢行し全滅した。
 あたかも日本軍の道連れのように沖縄に連れて来られ、道連れのように南部に移動させられ、道連れのように全滅させられていったのが朝鮮半島出身の軍属、いわゆる「朝鮮人軍夫」部隊の沖縄戦であった。
 こうした朝鮮半島出身軍属の沖縄戦については、以下の映像や note をみていただきたい。

[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦:NHK戦争証言アーカイブス 

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・柴田紳一「松代大本営建設の政治史的意義」(『國學院大學日本文化研究所紀要』第72輯)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・沖本富貴子「沖縄戦の朝鮮人─数値の検証」(沖縄大学地域研究所『地域研究』第21号、2018年)

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具志頭で傷の手当を待つ「少女」 実際にはこの「少女」は少年であった 少年の父親がオカッパ頭にして「少女」に似せれば米軍に捕まっても手荒なことはさすがにされないだろうと思ったからだった 45年6月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-72-1】