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【沖縄戦:1945年5月27日】南部撤退はじまる 「日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」─南部撤退と青酸カリを用いた傷病兵の「処置」

27日の戦況

 首里司令部東南の与那原方面における米軍の攻撃は緩やかであり、戦線に変化はなかった。
 那覇方面においては、那覇市街地での米軍の増加が見られたが活発な攻撃はなく、首里北方の戦線も現状維持という状況であった。
 独立混成大15連隊長は、那覇西側の松川付近の防衛にあたっていた同連隊第3大隊をこの日夜、繁田川付近に後退させ、独立第2大隊第2中隊を松川地区に配備した。この配備変更の措置は、米軍側戦史によると松川地区の米軍占領の大きな要因となったと指摘されている。
 第62師団主力の行動は、雨天悪路により兵力転用も意のようにならず、また兵器や弾薬、糧食を少ない兵員で運搬しなければならず、活発な行動は不可能であった。
 同師団の歩兵第63旅団長はこの日、長堂から津嘉山南東2キロの神里に進出し、概要、以下のように部署した。

独立歩兵大11大隊(在友寄) 与那原1・5キロの大里付近に進出して敵を攻撃
独立歩兵第12大隊(在宜寿次) 神里付近に進出して敵を攻撃
独立歩兵第13大隊 与那原南南西2キロの平良に進出して敵を攻撃
独立歩兵第14大隊(在金良) 旅団予備
戦車第27連隊(在長堂) 神里付近に進出して敵を攻撃
 ※戦車連隊は徒歩部隊となり、村上連隊長は転進中のこの日未明に戦死
特設第4連隊 26日夜、与那原南南西3キロの高平から高平南1キロの目取間に後退したが、歩兵第63旅団長から高平固守の命をうけ、28日に高平に前進し陣地占領

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105ミリ榴弾砲の弾薬を担ぎ、泥道を進む海兵隊員 45年5月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-15-4】

南部へ「死の撤退」

 第32軍はこの日夜、ついに首里司令部を放棄し、津嘉山後方司令部を経由して摩文仁の新司令部へ向けて撤退を開始した。

 首里山よさらば
 首里山に月美しくかかる夜 手榴弾投じつつ死せんとぞ思う
 かねて、最期の地と思い定めていた首里山に、別れを告げるときはきた。
 五月二十七日、薄暮ごろから第一ないし第五梯団に区分された司令部将兵は、梯団順序に次々と首里洞窟をあとにする。第一ないし第三梯団は、直路摩文仁へ、直接戦闘指揮に必要な人員より成る第四、第五梯団は、まず津嘉山に向かう。第四梯団は軍司令官、高級参謀その他約五十名、第五梯団は参謀長、長野参謀ら同じく約五十名である。
 混成旅団司令部は、同時刻ごろまず識名に、第二十四師団司令は、二十八日まず津嘉山に、それぞれ後退することになった。木村、三宅の両参謀は、残務処理のため今夜首里に残留し、明二十八日夜摩文仁に直行する予定だ。さしも諸施設完備した軍司令部の大洞窟も、数日来の豪雨で、すっかり水攻めにされ、深い所は膝を没するほどだ。所々に、まだ残る電灯の光りで、わずかにその陰惨さが救われている。
 薄暮になっても、敵の砲撃は衰えない。恰も、退却せんとするわが軍を、追い立てるかのように、巨弾は首里全山を揺がして、炸裂している。「第四梯段は、第五坑道に集合!」の声に、軍司令官は地下足袋、脚絆姿の軽装で、扇子片手に自室を出られる。私、吉野専属副官も遅れじと続行する。参謀室に残るは、木村、三宅の両参謀のみ。向い側の旅団司令部は、全員引き揚げて、付近一帯がらんとしている。両参謀は、残ったビールを処理するのも、残務整理の一つだと、盛んに飲み、かつ気焔をあげている。
 一切の書類を整理し、そしてアメリカ軍の手に渡った際、あまりに見苦しくては、名誉にかかわるとばかり、注意してきちんとあと始末を終わった。参謀室よ、さらば!
  [略]
 一九一五(午後七時十五分)出口付近に盛んに落下していた砲弾が、やや間遠になったのを機に、牛島将軍は決然として進発され、第四梯団の相当数はこれに続行した。[略]

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

首里の司令部壕について:NHK戦争証言アーカイブス

 この日の撤退は司令部要員の撤退であり、首里防衛線の第一線部隊の撤退は29日からおこなわれることになっていた。一方で、住民の南部への避難は首里周辺での戦闘が激化したころからはじまっていた。これにより南部には多くの避難民が押し寄せ、ガマや壕はすし詰め状態となっていく。そこに第32軍の各部隊が南下してくるわけであり、軍民混在で住民が戦闘に巻き込まれたり、軍による壕の追い出しなどが発生していく。
 また米軍の猛烈な砲爆撃のなかを戦場に不慣れな住民が逃げることは大変危険な行為であり、南部撤退時に米軍の攻撃に巻き込まれ死傷する住民も多数いた。まさしく軍民の南部撤退は「死の撤退」であった。

南城市大里 南部撤退で奪われた命:「戦世の証言」NHK戦争証言アーカイブス

重症傷病兵の「処置」

 軍の南部撤退により、南風原の陸軍病院本部や各兵団の野戦病院など軍病院も撤退となった。これにともない重症の傷病兵など重症患者は青酸カリ入りのミルクを飲ませられるなど「処置」がおこなわれた。
 もともと軍の南部撤退にあたり、軍は重症患者についての対応に苦慮していた。首里周辺や各戦線に約1万人もの傷病兵がいたともいわれるが、輸送力も貧弱であり、自力歩行できない重症患者については、基本的にはどうすることもできなかった。長参謀長はこれについて、「各々日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」と指示をしたと伝えられている。日本軍人としてはずかしくない善処──すなわち自ら命を絶つという命令であった。

識名壕やナゲーラ壕の軍病院で傷病兵の看護をおこなった宮城巳知子さん 重症患者を注射によって殺害するよう命じられた:NHK戦争証言アーカイブス

 例えば南風原の沖縄陸軍病院本部では、重症患者への青酸カリの配布が命令された。また「残置隊」が結成され、重症患者への「処置」がおこなわれたもいわれる。その他にも第62師団野戦病院では衛生兵がモルヒネかクレゾールといわれる消毒液を重症患者に注射したり、第24師団野戦病院では青酸カリを重症患者に飲ませたり、銃殺するなどした。また重症患者の前に乾パンと手榴弾を置き、暗に自殺を迫ることもあった。
 こうした出来事の背景には「死傷者は万難を廃し敵手に委せざる如く勉むるを要す」という軍の作戦方針があり、これに基づき長参謀長が「各々日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」と指示し、病院本部長の介在のもと「処置」がはじまっていったと考えられる。また兵士たちも、米軍は捕虜を戦車で轢き殺すなど残虐行為をはたらくと教えられ、それを信じきっていたため、死を選んだと思われる。重症であった軍属として働いていた女学生を含む女性たちにも青酸カリが配布されたといわれている。
 一方で重症患者のなかには、渡された青酸カリ入りの水やミルクが入った容器を投げ捨てる者もいたり、寝返りもうてないほどの重症患者が両手で体を引きずって地面を這って壕を出ようとしたという証言もあり、「生きたい」「死にたくない」という重症患者の必死の思いが伝わるとともに、軍の「処置」とは望まない死を強制する明らかな殺人であったといえる。
 もちろん、そうした「処置」の実施を拒否し、おこなわなかった部隊や衛生兵もいるが、「処置」は全体として軍によって組織的におこなわれた。
 なお傷病兵に対する「処置」は沖縄だけでなく、インパールや硫黄島、フィリピン、ガダルカナルなど様々な戦場でおこなわれた。また軍の移動や撤退時の落伍者にも「処置」がおこなわれたという。まさに日本軍の組織的行為であった。

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20号線と13号線の交差点付近にある第69野戦病院地区 45年5月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-18-4】

師範学校鉄血勤皇隊の南部撤退

 司令部壕で従軍していた師範学校鉄血勤皇隊の古堅実吉さんはこの日、首里放棄・南部撤退を命じられたと証言する。撤退時、傷病兵の同行は拒否されていたが、同級生を見捨てることはできず、仲間四人で負傷した同級生を抱えて、この日の夜に壕を脱出したという。

師範学校鉄血勤皇隊として沖縄戦を経験した古堅実吉氏:VICE Japan

 五月二十八日、首里防衛線が突破され、いよいよわれわれ師範隊も南部への転進となった。朝早く住みなれた留魂壕を出て金城町のがけ下の岩かげに集結し夜を待った。那覇の街を見おろすと安里から天妃にかけて土煙があがっていた。那覇の市街地のほとんどが米軍に制圧されていたのである。
 夕暮れ、降りしきる雨の中を識名を通って一日橋を渡り東風平村志多伯で一泊した。もちろん昼は壕にひそみ夜になって行軍するのである。一日橋を渡るのはそれこそ命がけであった。首里方面から南部への退却路は一日橋と真玉橋しかないのである。米軍はこの二つの橋に照準を合わせて、それこそ四六時中砲弾の雨を降らしていた。五月の長雨と砲弾により掘りかえされた道路はそれこそ泥の海でひざまでつかった。[略]途中、るいるいと折り重なる屍体をふみわけて進んだり、幼い子どもや老人、負傷した兵が泥の中で助けを求めてすがりついてくるのであるが、どうすることもできなかった。

(諸見守康「沖縄師範の鉄血勤皇隊」)

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伊平屋島侵攻に向かう戦車揚陸艦(LST) 45年5月26日~27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号101-06-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』1 戦時篇(『那覇市史』資料編第3巻7特装版)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・吉田裕『日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
・古賀徳子「沖縄陸軍病院における青酸カリ配布の実態」(『季刊戦争責任研究』第49号)

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怪我をした地元女性を前線から離れたところへ案内する海兵隊員 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号78-03-4】