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【沖縄戦:1945年6月27日】「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにやった」─海軍鹿山隊による久米島の住民虐殺はじまる

鹿山隊による住民虐殺

 昨日、久米島の仲里村銭田(イーフ)海岸に上陸した米軍は、この日には早くも同島具志川村に進攻した。戦車の音など聞いたこともない住民は、島を走破する米軍戦車の走行音に震え上がったという。特に戦車が橋を渡ると響く高音の走行音は、戦車がすぐ近くまで迫っているような錯覚を覚えさせるため、住民は山奥へ山奥へと逃げまわったそうだ。
 この日の久米島の警防日誌には次のように記されている。

 六月廿七日 晴
七時頃敵山城ヲ越エ儀間ニ侵入模様トノ儀間本部ヨリ通報ニ依リ直チニ当方ノ電話モ取除ク幸喜巡査団長不在中右処置ヲナシ避難セルモ団長ニ三部落ノ伝令ト共ニ最后迄本部ヲ護ル 八時二十分頃保久村昌栄氏来所 伝令幸地昌南ト二人斥候ニ出セシ二十分後敵射撃ノ音大田辺ニ聞ユ 敵村内ニ侵入セリト山ニ急報ト同時ニ本部モ解散 各伝令ハ退避指導ト今後ノ連絡ニ注意ス 敵ハ戦車三台外自動車ニテ県道ヲ仲地、具志川、大原ニ廻リ兵ハ各戸ノ家宅捜査ヲナス

※明らかに誤字と思われるものは引用者があらためた。

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 また久米島の具志川村の農業会々長吉浜智改氏のこの日の日誌には次のように記されている。

 六月二十七日
米軍早くも具志川へ侵入す
まだ聞いたこともない戦車の音、上陸用舟艇の爆音が海にも陸にも鳴り響くので島民がチヂミあがっている。戦車が大田端を通過する時など音響が高いので、もうじき手前まで来ているようなサッかくを起し、皆の者が老幼を擁し石垣、吉浜、仁達、前ヌル松、吉永、長寿の家族一行四十四名がウジジ山を出て冨祖久山へ移り、午後八時夜間にまぎれ再びウジジ山へ帰ってきたが、どの山へ行っても同様避難民が右往左往している。

※句読点は適宜引用者で付した。

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

 こうしたなかで久米島郵便局有線電話保守係の安里正二郎さん(正次郎とも)が米軍の捕虜となり、米軍の命令で山中に潜む鹿山隊(海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊、鹿山正兵曹長が隊長であったため鹿山隊といわれる)に届けるよう降伏勧告状を渡された。安里さんは鹿山隊を訪れ事情を説明したところ、鹿山は即座に安里さんを「スパイ」と決めつけ、墓穴を掘らせた上で発砲した。しかし一発では死ななかったため、鹿山隊の兵士が銃剣で安里さんを刺殺し墓穴に埋めた。数日後、夫の死を知った安里さんの妻カネさんは、日本軍への恐怖と夫を殺された悲しみのあまり川に身を投げて自ら命を絶ったといわれている。
 安里さんの殺害について、妻カネさんの姉の糸数和さんは戦後、週刊誌のインタビューに応じ、次のように当時の状況を振り返っている。

  [略]
「正次郎さんは上陸した米軍につかまったですよ。自宅から避難壕に逃げる途中だったそうですが、すぐ米兵に山の中の日本軍にあてた降伏勧告状を持って行けと命令されたですよ。断われば殺されるからと思って山に行ったら、日本軍にスパイと決めつけられて、隊長に銃殺されたですよ」
  [略]
「スパイとなれば、そのウワサだけで家族全員皆殺しにしてしまうのが日本軍のやり口でしたからね。妹は私たち親類にまで迷惑をかけまいとして家出したですよ。山田川へ入水自殺したのは、家出から一週間目でした。逃げ回った果てに……妹も日本軍に殺されたと同じです。そのショックで母も寝込んでしまって、まもなく死んでしまったですよ。正次郎さんも妹も親切ないい人だったのに……スパイなぞしてないのに……虫ケラ同然に殺すなんてあまりにもひどいですよ」
  [略]

(サンデー毎日1972年4月2日号)

 また久米島郵便局の局長などを歴任した喜久里教文さんは戦後、琉球郵政庁の求めにより沖縄戦記をまとめ提出しているが、そこには安里さんの殺害について次のように記されている。

  安里正次郎君の死
 久米島に有線電信保守係駐在員安里正次郎君がいた。首里氏の出身で空手の錬磨の深い男であった。米軍上陸と共に妻の実家たる仲里村字山城の宮城亀の家族と共に避難した。避難小屋の床板に使用するため、夜闇にまぎれ宮城の住家の床を取って来るべく出かけて行ったがその夜は避難小屋に帰られず、そのまま部落内の家に寝込んで夜明けを待つことにした。安里君が翌朝目を覚ましたら武装した米兵が既に安里君を取り囲んでいた。そのまゝ米軍駐在地に同行されたのである。
米軍は正次郎君をして日本軍(電波探知機をもつ海軍見張部隊三十名内外)に対して書面を持たせてやった。多分降伏勧告状だったろう。正次郎君は日本軍に殺されて遂に帰らなかった。正次郎君の妻カネ子もその後恐迫観念にかられて山田川に投身自殺した。安里君の遺骨は日本軍降伏収容後妻の父宮城亀と局員一緒になって殺害現場近くに埋葬した。

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)
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新しい収容地区へ移る平敷の人々 45年6月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-08-3】

鹿山隊の住民殺しの背景

 鹿山隊による安里さん殺害は、これ以降45年9月7日の鹿山隊の投降まで20人におよぶ住民殺しの一人目となった(カネさんの自殺も姉の和さんがいうように、鹿山隊による間接的な殺人といってもいいだろう)。
 鹿山隊が住民殺しに手を染めた直接の理由は、6月に入って島に米軍の往来が増え、「敵国『スパイ』ノ何時潜入スルヤ知レザル現状ニ在リ」と警戒していたところ、実際に米軍偵察部隊の上陸の際に島民が拉致されたことから、住民を通じて軍の動向が知られてしまうことを恐れ、住民に対し例えば米軍の宣伝ビラを所有すれば「敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」などと脅していたところにあるだろう。
 そうしたなかで鹿山は自分の脅しに反して米軍と接触した安里さんを許すことができず、他の住民への見せしめも含め安里さんを殺害したと思われる。もちろん「降伏」を持ちかけてきた安里さんを実際に「スパイ」と疑ったという部分もあっただろうし、このまま安里さんを帰せば再び米軍と接触し鹿山隊の情報を提供する可能性もあり、それを防ぎたいという動機もあっただろう。いずれにせよ鹿山隊は米軍に恐怖する一方、それ以上に久米島の住民を恐れていたといえる。
 住民虐殺について鹿山自身は戦後、やはり同じ週刊誌のインタビューで次のように話している。

[略]当時、スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。
 なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね。島民が向こう側に行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです

(上掲サンデー毎日)

 一方で、鹿山隊の住民殺しの背景には、他の地域における日本軍の住民迫害と共通する沖縄蔑視に基づく住民「スパイ」視があることはいうまでもない。また「軍官民共生共死の一体化」という思想が台頭し肥大化していくなかで、民間人から強制的に物資を徴発したり、戦闘に参加させたり、あるいは死を強いることも当たり前といった感覚があったのだろう。
 実際に鹿山隊は米軍上陸以前から「労務提供」と称して住民をこき使い、住民から食糧を強制的に提供させる「食糧調達」も繰り返していたが、鹿山隊の住民迫害の悪質さは比類ないとはいえ、それは大きくいえば沖縄各地で発生した日本軍による数々の住民への迫害と通底する事件といえるだろう。

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鹿山隊が6月15日に久米島の具志川村・仲里村の村長・警防団長に通達した「達」:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006116】【ファイル番号009-06】
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鹿山隊の「達」の続き:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006117】【ファイル番号009-06】

暗い感じのする男

 そもそも久米島で20人もの住民殺しを敢行した海軍兵曹長の鹿山正という男は、どのような人物であったのだろうか。
 久米島住民の証言をまとめると、鹿山は20人もの住民を虐殺したと聞いてイメージされるようなどう猛で野蛮な風体の人物ではなかったようだ。もちろん鹿山のやったことがどう猛で野蛮であることはいうまでもないが、久米島へ漂着した陸軍兵によると、鹿山自身は「目のふちが黒ずんで、あごひげを伸ばし杖を持って」おり、「なんとなく暗い感じのする男」だったそうだ。トップ画像は戦後、鹿山の住民虐殺が明るみとなった際、取材に応じる鹿山の写真である。撮影の仕方や画像からして多少迫力もあるように感じるが、別段何ということもない中年、あるいは初老の男性とも思える。
 ただし「暗い感じのする男」というのは気になる。米軍に投降した鹿山は屋嘉収容所に入れられるが、そこで先ほどの陸軍兵が鹿山と再開すると、鹿山はぷいと横を向き、一度も話をしなかったというエピソードもあるが、このように鹿山の性格は暗い、陰気な人物だったのだろう。
 波照間島の住民を軍刀で脅し、住民の家畜を奪い、マラリア地獄に陥れた波照間島の離島残置諜者であった山下虎雄(酒井喜代輔)も、上官が波照間島に来島するとおどおどしていというように、大それたことをした割には気の小さい男だったことは以前確認した通りだ。何事も当事者の個人的な性格や個別的な事象に還元することは危険であるが、存外こうした凶悪犯罪を惹起するものは見かけも性格も「そんな風には見えない」ような人物だったりするのかもしれない。
 一方で鹿山は戦後、自身が手を下し、また命令した住民殺しについて、「間違ったことはしていない」「軍人として誇りをもっている」と開き直った。謝罪の手紙のようなものも書いているが、島を訪れて被害者に向き合い、直接謝罪の言葉を述べるようなことはなかった。波照間島の山下虎雄も戦後、「自分は住民に歓迎された」などと開き直っているが、事件に向き合わず、開き直るところなども鹿山と山下は共通している。また鹿山は、久米島駐屯中、島の女性に性的関係を強い、米軍上陸後も愛人として連れまわしていたという証言がある。沖縄北部に配備された国頭支隊の宇土武彦支隊長も愛人を連れていたというような目撃証言もあり、第32軍司令部にも多数の女性が最後までいたということは以前触れた通りだが、鹿山という人物は何か「日本軍」を凝縮させたような人物であったのかもしれない。
 鹿山についてはまたあらためて取り上げたい。

離島残置諜者の関与 
 なお波照間島の山下のように、久米島にも二人の陸軍中野学校出身諜報要員が離島残置諜者として送り込まれている。特に具志川村に派遣された離島残置諜者の上原敏雄(本名:竹川実)は鹿山より階級が上であり、通信機材も所有していたことから、鹿山に何らかの指示をし、連絡を取り合い、事件に関与していた可能性は否定できない。
 戦後、二人の離島残置諜者は事件について一切の証言や弁解をしなかったが、戦後に至っても「話すことができない」というところに彼らの置かれた状況、すなわち沖縄戦の闇があるといえるだろう。
 特に竹川は終戦から30年後、「軍隊生活、なかでも沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体なにをしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような三〇年とさえ思われます。この三〇年は虚仮の半生だったと悔やまれます」と述べ、また家族に対しても戦争中は「久米島に行った」とだけ語り、詳しいことは話さなかったという。
 戦後の30年もの時間を「虚仮」といわしめるほどの久米島での「強烈な記憶」とは何か。家族にさえ秘匿にすべき久米島での「強烈な記憶」とは何か。鹿山隊による住民虐殺と無縁だとは思えない。

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キャプションには「与那原の44号線と5号線間の裏道に日本軍によって残された爆弾」とあるが、急造爆雷の類ではないだろうか 45年6月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-36-2】

読谷飛行場滑走路

 米軍上陸直後に制圧され拡張された読谷飛行場ではこの日、長さ2200メートルもの滑走路を持つ飛行場として完成した。すでに沖縄各地の飛行場は米軍の戦闘機部隊が配備され、南西諸島そして九州各地を空襲していたが、こうして飛行場の整備がすすむにつれ、大型の軍用機が配備されるようになる。すなわち6月26日から29日にかけて第41爆撃機群団の爆撃機が嘉手納飛行場に到着し、7月上旬に第11および第494爆撃機群団が到着した。以降、嘉手納飛行場そして読谷飛行場などに配備された爆撃機群団のB-24重爆撃機などが九州空襲を繰り返すことになる。
 なお45年8月9日、テニアンから発進し長崎に原爆を投下したB-29ボックスカーが読谷飛行場に緊急着陸するなど、読谷飛行場はじめ沖縄の飛行場は重要な位置にあった。

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沖縄の飛行場に駐機するB-29スーパーフォートレス「レディ・テディ」号の前でポーズを取る乗組員:沖縄県公文書館【写真番号14-27-4】

内閣告諭

 前日付けの鈴木首相の沖縄戦に関する内閣告諭について、この日の大阪朝日新聞は次のように報じている。

一切の行動を戦勝の一途に 内閣告諭・国難打開を闡明
 作戦の方途は定り
  戦力日々に充実
   沖縄の事態深く恐懼

政府は沖縄戦の最終檀家に直面してさらに戦争完遂に対する政府不動の決意を全国民に愬へるため鈴木首相の名において内閣告諭を発することとし、二六日の定例閣議にこれが案文を附議決定、鈴木首相は同日午後三時参内、内奏ののち同四時半情報局より左のごとく発表した[略]
  内閣告諭
皇軍陸海空一体の真に感激すべき善戦健闘と官民不屈の協力敢闘とに拘らず沖縄本島の守備遂に成らず恐懼何物かこれに加へん、然れども沖縄本島に於ける作戦に依り敵に与へたる損害は甚大にして啻に敵の作戦遂行に齟齬を来さしめたるのみならず、其の精神上に与へたる打撃を思へばわが今後の戦争遂行を有利に導きたるもの誠に大なるものありと謂ふを得べし
惟ふに敵の空襲は爾今愈々苛烈なるべく新なる本土侵寇亦予期せざるを得ず、正に元寇以来の国難にして帝国の存亡を決するの秋なり
神州 御稜威の下、我等の祖先之を保衛し我等相倶に之を護持し永く之を子孫に継承せしむべきの地にして未だ曾て外夷の侵寇を許さずつ焉ぞ之を敵の蹂躙に委するを得んや、即ち吾等は 聖訓を恪遵して義勇公に奉じ朝野相依り隣保相扶け道義を尚び節制を重んじ各其の職域に励精して彌々士気を昂揚し、国家の総力を挙げて敵を千里の外に攘ふべきのみ、作戦の方途はすでに定まり戦力充実の施策亦日を逐うて進む、而して国民義勇隊結成せられて国民の隊伍新に成りたり、政府は従来屢々声明したる所信に従ひ果敢邁進すべし
本大臣は帝国存亡の関頭に立ち茲に全国民に対し更めて宣戦の大詔に示し給へる聖旨を奉戴し死生一如の日本魂に徹して自奮自励信頼愈々加はるべき苦難に堪へ進んで一切の行動を戦勝の一途に集中し誓って国難を打開せんことを要望す
 昭和二十年六月二十六日
  内閣総理大臣 男爵
       鈴木貫太郎

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摩文仁の司令部壕を視察するスティルウェル大将 後ろに壕の入口が見える 45年6月27日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-37-4】

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:久米島
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
「原爆投下機が読谷に飛来 1945年8月9日 ボックスカーが長崎に投下後 燃料不足で緊急着陸」琉球新報2018年8月9日

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取材にこたえる鹿山正:BS-TBS 週刊報道LIFE「終わりなき沖縄戦」2015年8月23日放映