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【沖縄戦:1944年7月13日】特設水上勤務隊、第32軍に編入─奴隷のように扱われ、壊滅する日本軍に道連れにされた朝鮮出身軍属たち

朝鮮出身軍属と沖縄戦

 この日、第27野戦防疫給水部、第49兵站地区隊本部、独立自動車第215中隊などともに朝鮮半島出身者を徴用し編成された特設水上勤務第101中隊(中隊長:二木寛行中尉)、同第102中隊(中隊長:田中良夫中尉)、同第103中隊(中隊長:市川武雄中尉)、同第104中隊(中隊長:中山忠中尉)が第32軍に編入された。
 この水勤隊は、「朝鮮人軍夫」部隊などとも呼ばれるが、沖縄戦における「朝鮮人軍夫」という表現には、徴用工も含まれる。実際に石垣島では原田組が朝鮮出身者の徴用工を使用しており、水勤隊については「朝鮮出身軍属」というべきだろう。
 水勤隊は朝鮮半島の大邱で編成され、下関や鹿児島などを経由し、沖縄各地に上陸した。水勤隊の徴用や編成は強引に行われ、名簿に載った朝鮮の若者は役人や警察など立ち合いの下、有無を言わせず連れていかれたそうだ。それ以外にも、「村の夫役だから数日ですぐ帰れる」「いい仕事がある」「金になる」などと騙されて軍属となった者も多い。
 編成された大邱では訓練もおこなわれたが、その間には逃亡が相次いだという。ある部隊では逃げ出した朝鮮出身軍属が軍用犬に見つかり、皆の前に引きずり出されて竹刀で滅多打ちにされたという証言もある。
 8月上旬、水勤隊は沖縄に到着し、続々と沖縄に運び込まれる軍事物資の陸揚げや運搬など港湾荷役作業や港湾の整備や拡張工事に従事させられるわけだが、その労働は非常に危険で過酷なものであったといわれる。作業が終夜におよぶ場合もあり、あまりの過労のため倒れる者もいたという。
 沖縄に上陸するまでの輸送船でも彼らの待遇は悪く、船倉にすし詰めで詰め込まれた。8月の沖縄行の海路は猛烈な日差しであり、船倉は暑さで生き地獄となったようだ。朝鮮出身軍属たちが甲板に出ようとすると、日本兵は実力で船倉に押し戻したという。一方で沖縄行の輸送船で日本兵たちが甲板で煙草を吸っていたなどの証言もあり、日本人は比較的自由に甲板に出れたわけであるから、水勤隊の奴隷的な扱いが理解できるだろう。
 水勤隊第104中隊の港湾作業について、以下のような調査がある。

 読谷村渡具知港にいた104中隊の44年9月陣中日誌に9月の荷役総量が出ている。「米65,611袋、木材543粒、建築道具499梱、弾薬20,350箱、梱包糧秣45,572梱、セメント5,490袋、需品(各種含)22,846梱、大豆160俵、被服6,082梱、兵器(短銃機関銃)3,180梱、4門、揮発油1,829ガソリンタンク、釘582頓、移動起重機1台、大発機艇5隻、馬量(ママ)1,333根、その他鋼材130頓、品目不明3,000梱」。このときの渡具知港の人数は第1、3小隊の425人(2個小隊)である。うち1個小隊が1週間ほど与那原へ派遣され、9月24日からは84人残して那覇港の応援に行ってしまった。欠けた人数でこれだけの量をこなしたというのは驚くしかない。作業は平均11時間前後で、終夜に及んだこともあった。

(沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察─特設水上勤務隊を中心に─」:『地域研究』第20号、2017年)

 水勤隊は軍の配備変更や作戦変更に伴い、沖縄各地を転々としているが、44年8月12日、宮古島に到着した水勤隊第101中隊の足取りとその特徴は次の通り。

 ① 101中隊
 那覇には上陸せず宮古島に移動した。宮古島到着が12日、第1、第3小隊が宮古島、第2小隊が石垣島に駐屯した。その後の移動はなく同地で終戦を迎える。宮古では28師団輜重兵第28連隊(豊5656)の指揮下に入り平良港で港湾作業についた。45年3月1日平良港で揚陸作業中、米軍の攻撃で船が沈没し、朝鮮人56人が犠牲になった。水勤隊101中隊の徐正福はその時陸側にいて助かったが、その後80人の朝鮮人と共に農作業についたと証言している。宮古島には水勤隊のほかに、朝鮮人が32軍防衛築城隊4、5中隊に69人、第5野戦航空修理廠第2独立整備隊に19人、歩兵第3連隊に13人、比較的まとまった数で動員されている。住民は朝鮮人が井戸掘りや陣地構築作業についているのを見ているが、それがいつの時期なのか、どの部隊の朝鮮人であるかなどの詳細は分かっていない。宮古島、八重山地域には米軍の上陸はなかったが、空爆は継続し、飢餓とマラリヤに苦しめられた。

(同上)

朝鮮出身軍属がうけたリンチ 

 慶良間諸島の阿嘉島には44年2月、水勤隊第103中隊が配備された。このため小さな島の人口は膨れ上がり、深刻な食糧不足に陥り、朝鮮人軍属が飢えのため食糧を盗んで「処刑」されたり、朝鮮人軍属の米軍への投降が発生すると、朝鮮人軍属が縦横5、6メートル、深さ2メートルほどの穴2箇所に入れられ、格子状の木で穴をふさがれ監禁されることもあった。銃の試し撃ちがわりに「処刑」された朝鮮出身軍属もいたようだ。
 その他にも「よれよれの軍服を着て路上に横たわる朝鮮出身軍夫たち十数人を日本兵が蹴り飛ばしていた」「舟艇の上に5~6人並べられロープを束ねたようなものでぶたれていた。端の朝鮮半島出身者が倒れて海に落ちたので住民が助けたところ、その住民も日本軍に相当やられていた」「人間扱いではなかった、ひどかった」「軍夫たちはごく子細なことでも難癖をつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景はいまも忘れることができない」といった証言が残っている。

[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦:NHK戦争証言アーカイブス

朝鮮出身軍属の犠牲者

 水勤隊第101中隊は宮古島に配備されたが、宮古島でも空襲が近づくなかで作業を強いられるなどした。そのため空襲での死やマラリア、飢えでの犠牲者が続出した。
 同第102中隊および第104中隊は沖縄島に配備され、地上戦後は弾薬の運搬作業などに従事させられた上で、最後は沖縄島での米軍との地上戦に兵士として動員させられた。第102中隊は沖縄島への米軍上陸後、前線への弾薬運搬に従事させられ、44年6月21日ごろには南部で全滅した。第104中隊も首里方面での戦闘に参加し、第32軍の南部撤退以降は真栄平での戦闘に従事、同年6月22日には総員敵陣への斬込みを敢行し全滅した。
 同第103中隊は上述のように阿嘉島など慶良間諸島に配備され、日本軍による「処刑」や食糧不足による飢えなどで犠牲者が出た他、米軍上陸時は訓練もなく斬込みを強要され犠牲者が出た。
 沖縄戦を語る上において「慰安婦」や軍人軍属、徴用工として朝鮮半島出身者の動員や犠牲は欠かすことのできないものだが、実態は不詳な部分が多い。摩文仁の「平和の礎」における朝鮮半島出身者の刻銘も、実態とは大きくかけ離れていることは想像に難くない。
 日本軍によって無理やり沖縄に連行され、奴隷のように扱われ、斬り込みなどと呼ばれる自殺攻撃を強制され、地上戦の最後では日本軍に道連れとされ犠牲となっていった朝鮮半島出身者たちが、最後どのようになったかもわからないし、わかろうともしない──こうした人たちが語る「日本軍は沖縄を守った」などの沖縄戦論がいかに空虚で、危険で、先人の犠牲を冒涜するものかは、いうまでもないだろう。

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朝鮮出身軍属を捕虜として連行する米海軍 慶良間諸島と思われる 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-06-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察─特設水上勤務隊を中心に─」(『地域研究』第20号、2017年)
・沖本富貴子「沖縄戦の朝鮮人─数値の検証」(『地域研究』第21号、2018年)

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米軍によって捕らえられた慶良間諸島の朝鮮出身軍属たち 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-05-4】