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【沖縄戦:1945年2月22日】小禄村で皇土防衛義勇隊の結成式がおこなわれる 小禄村と沖縄戦

皇土防衛義勇隊

 沖縄新報の報道によると、小禄村(現在の那覇市の那覇空港周辺の地区)でこの日、村役場に村当局者や各種団体代表が集まり、「皇土防衛義勇隊村隊(小禄村皇土防衛義勇隊)」の結成式が開催された。

小禄村義勇隊結成
 島尻郡小禄村では22日早朝村当局並に各種団体代表者が村役場に参集して皇土防衛義勇隊村隊の結成式を挙行、村民一丸となつて軍に協力郷土死守の誓ひを固め食糧増産、貯蓄増強、軍工事への挺身、家畜の増強、闇防止など決議を行つて散会した、なほ各部落単位の義勇隊も早急に結成する。

(沖縄新報1945年2月23日:『那覇市史』資料篇第2巻中の2)

 小禄村周辺においてもこのころ、豊見城村や真和志村で村義勇隊や各集落ごとの義勇隊が結成された。その他の地域でも25日ごろまでに集落ごとの義勇隊の結成式が挙行されることになっていた。

義勇隊とは

 そもそも義勇隊とは、各町村毎、防衛召集によって軍に動員された者以外の男女で編成された組織であり、弾薬の運搬や患者の輸送、陣地構築作業や食糧の確保や運搬が任務とされた。全県下の義勇隊は大政翼賛会県支部長である県知事が統括し、各警察署長が必要な時に管轄内の義勇隊を統制することになっていた。
 沖縄では昭和初頭より義勇隊の必要性が唱えられていた経緯もあるが、基本的には島田知事の「独創結成」といわれ、法的根拠もなかった。義勇隊が自主的に結成され、その役割も小禄村義勇隊結成式で決議された「食糧増産、貯蓄増強」といった程度ならば特段の法的根拠も必要ないだろうが、実際には上述のように結成に当局が積極的に関わり、直接間接に戦闘に動員されたのであり、違法行為である。
 また伊江島や玉城村では、青年学校(小学校卒業後、中等学校へ進学せず働き出した青少年への教育を実施していた学校)の生徒を中心として「少年義勇隊」「青年義勇隊」が結成された。青年学校生徒による義勇隊結成と生徒の入隊については軍の強い意向もあり、玉城村では1945年2月ごろ、駐屯していた軍の部隊長が学校の職員に入隊者名簿を示し、軍刀で脅かして入隊を要求したといわれている。その後、被服や食糧その他生活に必要なものは軍人と同様に支給との条件で15歳から17歳の生徒が青年義勇隊に編入され、対戦車戦闘などの訓練をほどこされた。
 3月ごろの防衛召集の拡大とともに義勇隊への動員も活発化していくが、このころでは義勇隊は弾薬運搬など軍作業に就いた他、直接的な戦闘に参加することも想定された。
 3月下旬になると青年学校などの単位の義勇隊も集落単位で再編成されるとともに、住民の戦争動員がこれまでの徴用から区長を通じた義勇隊の動員に大きくかわっていった。ただし、区長を通じての義勇隊への動員は4月下旬ごろまでであり、第32軍が敗退を開始しはじめたころから、軍がその場にいた者を誰でも義勇隊として使用し、手榴弾など武器を渡して戦闘に参加させるなどした。

小禄村と沖縄戦

 小禄村は昭和の初頭、海軍により小禄飛行場(海軍那覇飛行場、小禄飛行場)が建設された。現在の那覇空港の原型である。
 沖縄方面の戦局が風雲急を告げはじめた1944年8月、沖縄戦に向けた海軍部隊である海軍沖縄方面根拠地隊の司令部が奄美から小禄飛行場に移動する(後に豊見城の海軍司令部壕へ移動)。
 「十・十空襲」といわれる1944年10月10日の大空襲では、小禄飛行場や鏡水・大嶺といった小禄の集落も集中攻撃をうけ、焼き払われた。その後、米軍がいよいよ来襲すると、小禄は飛行場や海軍部隊司令部があることから、空襲や艦砲射撃などで徹底的に攻撃をうけた。
 1945年4月1日に米軍は沖縄中部西海岸に上陸し首里を目指して南下する。そして6月4日早朝には、艦砲射撃の支援をうけつつ水陸用戦車100輌・兵員600人の米軍が小禄飛行場の北に上陸し、海軍沖縄方面根拠地隊と壮絶な戦闘を開始する。米軍は火炎戦車や爆雷で日本兵や住民が隠れている壕を攻撃し、さらに黄りん弾やガソリンで次々に焼き払い、小禄村を制圧していった。最終的に小禄村における戦死者は2千人以上ともいわれる。
 その後、小禄村は米軍により占領され、住民は中・北部の収容所での生活を余儀なくされた。1946年2月に小禄村への移動許可が出たが、安次嶺・当間・金城・鏡水などの集落は依然として米軍に占領され、戻ることができなかった。

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小禄に上陸する米軍部隊:沖縄県公文書館【写真番号83-12-2】

硫黄島の戦い

摺鉢山地区 
 この日は風速8~10メートルの風雨となり、海も大変に荒れたが、地上では昨日に引き続き激戦が展開された。米軍戦車は摺鉢山の地下壕の入口前約10メートルに進出し火炎攻撃をおこない、また地下壕の入口を砲撃で閉塞し、その上で削岩機で地下壕上部に穴を開け、黄燐を注入し攻撃した。これによって摺鉢山地区隊の兵力は夕方までに陸海軍約300に低下し、摺鉢山山脚はほとんど米軍に包囲されるに至った。
 松下地区隊長は現況、夜間挺進斬込みは戦果少なく損害多しとして、島中央の主力部隊との連絡確保を優先し連絡班を出撃させたが、失敗に終わった。

南地区 
 米軍は早朝5時ごろより部隊交代を実施している模様だったが、8時ごろより攻撃前進を再開、特に南集落北・元山飛行場東の屏風山付近へロケット砲の砲撃を集中させた。守備隊は南集落の残存拠点の確保に努めるとともに、同集落方面の米軍へ砲迫撃をもって反撃した。

元山飛行場 
 元山飛行場では独立速射砲第12大隊が米軍に抵抗していたが、米軍の攻勢激しく、大隊長みずから速射砲を操作して米軍戦車数両を擱坐炎上させるほどであったが、遂に速射砲も破壊され、大隊長は率先して爆雷を抱えて米軍戦車隊に飛び込み、壮烈な戦死を遂げた。

 この日の米軍の進出線は前日とかわりなく、西揚陸場ー千鳥集落ー船見台中央ー南集落北側ー南揚陸場東端の線で対峙した。また、この日夜、守備隊は悪天候と米軍の艦砲射撃が少なくなったことを利用し、夜間に全面的に挺進斬込みを敢行した。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面海軍作戦』
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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十・十空襲で米軍機に攻撃される海軍小禄飛行場 駐機している飛行機はデコイ(おとり用飛行機)のようにも見える:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02005991】