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【沖縄戦:1944年7月19日】対馬丸の悲劇の序章─沖縄県内政部長、「学童集団疎開準備ニ関スル件」を指示

「学童集団疎開準備ニ関スル件」

 44年7月7日夜、軍の要請に基づき、政府は沖縄および奄美の住民の島外疎開を緊急閣議にて決定した。これにより沖縄県は慌ただしく疎開の準備をはじめ、7月下旬には警察部に特別援護室を設置、21日には第一陣の疎開者752人が鹿児島に上陸した(実態は本土出身者の引き揚げだった)。
 こうして住民の県外疎開がすすめられるなかで、学童疎開の取り組みもはじまる。7月11日、校長会が開催され「疎開児童の件」が議題となった。また18日の臨時校長会では、沖縄県内政部長が「初等科三年以上の男子は将来の大事な人的資源である。集団的に安全なる地に先生が運[ママ]れて疎開させる」と発言している。
 そして県内政部長はこの日、国民学校長などに「学童集団疎開準備ニ関スル件」の指示を出し、疎開時期は未定ながら、28日までに疎開希望者の確実な報告をするよう命じている。

戦世の証言 那覇市 疎開そして被爆:NHK戦争証言アーカイブス

学童疎開の目的と進捗

 こうして短時間で疎開希望者を取りまとめよという強い意志のもとすすめられた学童疎開だが、その目的は上述のように有為な少年少女を保護することはもちろんながら、「県内食糧事情ノ調節ヲ図ラムガ為」ともあり、県外一般疎開と同じく軍の食糧確保の対策の一つだった。
 また学童疎開があわただしくすすめられた背景には、軍による学校の接収の影響もあったといわれる。第32軍は多くの国民学校を部隊の本部や兵舎として使用していた。学校を駐屯地として円滑に使用するためには、学童との同居は不可能であり、学校側も「校舎なき教育」を検討するなどしていた。こうしたことも学童疎開が急遽実施されていった背景と考えられる。
 県から通達をうけた国民学校側は、職員が家庭を訪問し、児童の疎開を勧奨した。しかし情報統制によって「日本は勝っている」と思い込まされていた多くの県民は、子どもをあわてて県外に疎開させることに納得がいかなかったそうだ。また南西諸島海域で米潜水艦による船舶の撃沈も相次いでおり、それもためらう理由となった。一方で第32軍の大兵力が急速に配備されることにより県民の不安も増していき、万一沖縄が戦場になった場合でも疎開した子どもが生き残れば血筋も絶えずにすむという考えも広まり、少しずつ疎開希望者も増えていったといわれる。

戦世の証言 南風原町 学童疎開を語り継ぐ:NHK戦争証言アーカイブス

対馬丸の悲劇の序章

 こうして44年8月15日、131人の児童らが潜水母艦「迅鯨」で出発し、翌日無事に鹿児島に到着した。潜水母艦といっても、あくまでも潜水艦ではなく船舶であり、基本的には住民疎開も学童の疎開も船舶でおこなわれた。具体的には第32軍の部隊を輸送するため沖縄に入港した輸送船や軍艦に住民や学童が乗り、九州や台湾への疎開がおこなわれた。そうした船の一つが貨物船「対馬丸」である。
 対馬丸は「学童集団疎開準備ニ関スル件」が出されたちょうど一ヶ月後の8月19日、同じく貨物船の暁空丸や和浦丸とともに第62師団の兵員を乗せ那覇港に入港した。そして8月21日、疎開学童や一般疎開者を乗せ那覇港を出港することになる。
 しかし7月16日の時点で、対馬丸を撃沈することになる米潜水艦ボーフィン号は南西諸島海域の中央部で60日間の第6次紹介活動を展開していた。すなわち学童疎開が本格化するこのころ、米潜水艦はそうした輸送船を狙い沖縄近海の海中で息をひそめていたのである。

[証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・保坂廣志「平和研究ノート 戦時遭難船舶(沖縄関係)と米潜水艦攻撃」(『琉球大学法文学部紀要』地域・社会科学編、第1号、1995年)

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疎開学童:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02001361】【ファイル番号004-02】