【沖縄戦:1945年5月16日】「現戦線ノ保持逐次至難トナリ組織的戦略持久ハ終焉セントス」─首里防衛戦闘の終焉が近づく 沖縄刑務所の解散
シュガーローフ・ヒル争奪戦
引き続き首里司令部西方の安里から真嘉比にかけて米軍は朝8時ごろから強力な火力支援の下、戦車を伴う部隊の激しい攻勢をかけてきた。特にシュガーローフ・ヒルは戦闘の中心となった。シュガーローフ頂上は一時米軍に占領されたが、守備隊は砲迫撃の支援のもと撃退した。
しかし守備隊の損害も多く、シュガーローフ正面に配置されていた海軍山口大隊は大隊長以下ほとんどが戦死し、残存者は負傷者22名という状況だった。
一方でシュガーローフの争奪戦では米軍の被害も拡大していった。
シュガー・ローフの攻撃は、五月十六日、ふたたび行われた。今度はいままでよりも、はるかに兵力を増強した。
だが、これも失敗に終わった。午前八時を期して五個中隊が同時に、約九百メートルの地点からシュガー・ローフやクレセント地域をめざして進撃していった。
[略]日本軍は丘の反対側にいるので、迫撃砲や大砲では攻撃できない。戦車もシュガー・ローフを西側から攻めようとしたが、ここは四方から猛烈な対戦車砲にあうので、近寄ることもできず、さらに戦車の後からつづいてきた海兵隊も、この砲火のもとではまったく手を出せなかった。
[略]
この戦闘に従事した第六海兵師団のベテランたちは、後に回想し、五月十六日が全沖縄戦中で最も熾烈な戦闘のあった日だといっている。二個連隊が全力を傾けて攻撃して、しかも敗れたのだ。情報将校たちはシュガー・ローフのこの防衛陣は、前二十四時間内に急速に強化されたものだと報告した。海兵隊の損害は相変わらずふえる一方であった。
(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
シュガーローフの海兵隊員 45年4月6日撮影(日付は誤っていると思われる):沖縄県公文書館【写真番号72-31-1】
その他の戦況
首里司令部北方の大名、末吉方面では米軍戦車10数両の猛攻をうけた。守備隊は米軍戦車2両を擱坐させ、砲迫撃の支援のもとでこれを撃退したが、守備隊も多大な損害をうけた。
首里司令部北東の石嶺東方地区および130、140、150の各高地は戦車をともなう強力な米軍と激戦となったが、守備隊は陣地を確保した。130、140、150の各高地を守備する歩兵第22連隊は損耗いちじるしく、連隊本部の人員まで前線に派遣し防戦につとめた。昨夜、140高地および150高地奪回のため出撃し米軍と対峙した歩兵第32連隊の伊東大隊は多数の死傷者を生じつつ、同高地の維持につとめた。
石嶺地区の戦車連隊も激戦となり、130高地付近に車体を埋没して砲塔射撃を実施していた戦車6両が米軍戦車によって破壊された。
首里司令部東方の運玉森方面では、米軍の一部が運玉森南西約1キロの大名東側高地に進入したがこれを撃退した。また運玉森東側面陣地に米軍戦車の攻撃があり、一部は与那原北方に進出した。
第24師団長は隷下の輜重兵第24連隊の駄馬大隊を歩兵第22連隊に配属し、弁ヶ岳(チョコレート・ドロップ)付近の防衛を強化させ、歩兵第32連隊に配属中の独立速射砲第3大隊第2中隊を戦車第27連隊に配属し、石嶺付近の防備を強化させるなどした。
前線から離れる第6海兵師団第29連隊ドッグ中隊 45年5月13日~16日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-08-3】
軍の航空協力要請と義号作戦
第32軍はこの日夕方、航空作戦について第10方面軍および大本営陸軍部に次のように要請した。
球参電第三八〇号(十六日一八一〇発)
一 軍ハ状況ヲ判断シ総力ヲ挙ケ北面ヨリ首里東西ノ線ニ最後ノ予備ヲ投入シツツ敢闘中ナルモ現兵力[「戦線」の間違いか]ノ保持逐次至難トナリ将ニ組織的戦略持久ハ終焉セントス 一度現態勢ニ崩レ軍カ地域的遊撃戦若クハ狭小ナル首里地区複廓陣地ノ使用ニ至リ野戦陣地ハ永久ニ失スルモノト[以下不明]
二 此ノ重大転機ニ於テ航空作戦従来ノ大戦果ヲ拡大之ヲ勝利ニ導ク為ニハ実行至難[以下数文字不明]左ノ如ク策残サレアリト存セラレ至急方面軍及中央ノ作戦方針率直ニ披瀝サレ度
(一) 武器ナキ二万五千ノ戦闘員ニ対スル急速兵器ノ輸送
(二) 日航、満航、中華其ノ他動員可能ノ全空輸機ヲ以テスル精鋭歩兵数箇大隊ノ緊急落下傘投下
(三) 聯合艦隊、第八飛行団ノミニ依ルコトナク速ニ国軍全航空兵力ヲ本島周辺ノ敵艦船撃破ニ[以下不明]
(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
「現戦線ノ保持逐次至難トナリ将ニ組織的戦略持久ハ終焉セントス」との一文に第32軍の置かれた状況がよくわかる。また日航や満航、中華など民間航空会社を指すものと思われる航空機まで使用して空挺作戦の実行を要請するなど、事態はぎりぎりの状況にいたっていたものと思われる。武器の急速輸送の要請も含め、こうした軍の要請を聞きかじった将兵の会話に尾ひれがつき、「大本営による沖縄救援」といったデマが生まれていった部分はあるだろう。
この電報がとどいたころ、陸軍参謀本部宮崎周一第一部長は九州方面に出張していた。翌17日、第6航空軍菅原道大司令官と今後の航空作戦について打ち合わせをおこなった他、菅原司令官から義号作戦(沖縄への空挺特攻作戦)を契機とする航空作戦の強化について説明をうけた。
義号作戦そのものは、かねてから第6航空軍が大本営に強く打診したいたが、大本営は認可しなかった。ところが18日、大本営から第6航空軍に義号作戦認可の連絡があり、第6航空軍は作戦準備に着手した。宮崎第一部長は第32軍の要請をふまえ、兵力増援は沖縄方面の制空の面から難しく、空挺特攻としての義号作戦を実施し、これに関連して沖縄周辺の米艦船への航空作戦を実施することを決定した。
これをうけて義烈空挺隊が出撃し、沖縄の米軍飛行場へ強行着陸をおこなうことになるが、これについてはまたあらためて確認したい。
日没時、兵士たちに守られるM7型戦車の輪影 45年5月13日~16日撮影:沖縄県公文書館【写真番号86-12-4】
沖縄刑務所の解散
沖縄刑務所は明治時代に那覇東村に設置され、以降各地を転々としながら、1923年(大正12)に真和志村古波蔵(現在の那覇市楚辺)に移転した。
第二次世界大戦開戦時、沖縄刑務所の収容者は約250人いたが、44年の十・十空襲など戦況が悪化するなかで収容者の大部分は本土の刑務所に疎開させられた。
45年に入り空襲が激しさを増すと、刑務所も避難壕での生活となり、作業や教誨などもなく、刑務所機能は停止した。刑務所としては収容者の解放を関係当局に打診するなどしたが、色よい返事はなかった。
その後、職員や収容者ともども刑務所の壕を出て首里の裁判所壕に移り、さらに西森の自然壕に移動した。このころより職員の家族も壕に集まり、収容者31人に職員45人、さらにその家族45人が加わり、100人からの共同生活となった。
首里方面への米軍の攻撃が激しさを増すなかで、刑務所は首里撤退を決意し、古波蔵の刑務所の壕へ一旦移動した。15日に軍の将校がきて、壕について「軍が使用するから明け渡すように」と命令した。職員はこれを断ると、将校は軍刀に手をかけて「軍令に背く奴は叩き切る」などと脅したという。
同日夕、職員らは壕を出ることを決意し、職員と受刑者数名を一班として数班に分かれ古波蔵の壕を出て南部の南山城跡を集合場所とすることとし、16日未明に壕を出たという。このときには31人の収容者のうち2人が刑期を終えていたようだが、職員と共に行動したそうだ。また2人の軍人受刑者は「軍人として死にたい」として原隊に復帰したともいわれる。
そしてこれより各自の行動は班、家族ごとの行動となり、沖縄刑務所はこの日をもって事実上解散したといえる。
南部への避難にあたり、収容者が負傷した職員を担架にのせて南部まで避難することもあり、また職員も最後まで収容者と行動を共にしたという。なお職員は19人、収容者は24人の死亡が確認されている。
労役に就くことになった日本兵 座間味島にて 45年5月16日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-24-2】
新聞報道より
この日、大阪朝日新聞は次のように記事で沖縄戦の戦況を報じるとともに、社説で沖縄戦について論じている。
沖縄の全兵力を集中敵那覇へ攻撃強行
ここ数日の戦勢重大
【南方前線基地井上報道班員十四日発】沖縄本島南部地区における敵の攻勢は去る九日以来すでに五日を経過し今なほ熾烈に強行されているが、敵が今回の攻勢において沖縄作戦開始以来の全上陸部隊を集中して来たことは注目される。
[略]
我が守備部隊はこの敵を邀へ地域敵には若干敵の侵出を許しつつも皇軍伝統の巧妙な出血戦術をもって寡兵よく敵の侵出企図を随所に破摧し決死の猛攻を反復しつつあり、ここ数日間における彼我の攻防戦は本島における大勢を決するものと見られる、十二日の戦況では敵は朝来再び前線に亙って攻撃し来り、我が右翼全将兵は敢然猛反撃に出て主陣地を確保しているがこの正面の敵の攻撃は最も熾烈を極めた、久志北側高地でも十二日来激戦が繰返され、また戦車五十輌を伴ふ有力なる敵は那覇北方に侵出、十二日夕刻彼我の戦闘は沢岻、真嘉比を結ぶ線において激闘を交へつつあり、我が方の出血戦果は尨大な数に上る見込みである
[略]
(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
沖縄県民の奮闘祈る
地方長官会議で激励を打電
十四日地方長官会議の席上山田島根県知事の動議により島田沖縄県知事宛地方長官会議参列者一同の名をもって左の如き感謝激励の電報を打電した
沖縄の決戦正に皇国の前途に懸るところ頗る大なり、貴官はじめ官民各位克く軍の作戦に策応せられ、御敢闘をつづけられるに対し深甚なる感謝の意を表す、邦家のためいよいよ御奮闘あらんことを望む
(同上)
社説「沖縄決戦に総進撃せん」
沖縄決戦は、全世界の注視するところ、況やわれら一億国民においてをや。全身全霊をもって凝視し、祈念し、挺身をもって特攻を辞せざるの覚悟である。今、同本島を繞る戦勢を顧みるに、荒鷲□[ママ]次の猛攻により予測以上の大打撃を被れる敵は、必死の思ひで同島周辺にそくばくの艦船を淹留せしめるのほか、九州東方洋上に有力機動部隊をも出動せしめて、各地区飛行場を銃爆撃しつつある。他方陸上戦闘においても、真嘉比、泊北方にて紛戦中とあるから、要衝首里、那覇間近に第一線が移行していることが分る。水陸両方面とも敵は明かに決戦的総攻撃に出て来た。
[略]
陸海空の精鋭はもちろん、あらゆる職場あらゆる地方に於て、義勇奉公の重大関頭はいまだ。いまにして起たずんば、機を失するの危惧なしとしない。天の時、人の和、地の利ともに我に有る。物は遺憾ながら敵に比較して乏しいであらう。しかし少いものでも使ひやうである。重点に集結せば、一をもって優に分散せる十に当ることが出来る。その際時間の要素がもっとも肝要であり、戦機を掴むことが緊切である。しかも現地の激闘に兼ね戦術、戦略の総攻撃に敵は突進し来った瞬間である。鏝ぜり合ひの刹那である。この瞬刻を逸せず、総蹶起して撃砕、撃砕、また撃砕し抜かうではないか。
(同上)
軍医療検査官リーチ大佐が議長を務めるミーティングに参加した各医療ユニットからの代表将校たち 45年5月16日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-79-1】
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
トップ画像
大きな被害をうけた沖縄刑務所とこれを見つめる海兵隊員 45年6月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-19-2】