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【沖縄戦:1945年5月24日】「二二一一飛行場突入」─義烈空挺隊の強行着陸 「人間爆弾」となりただ死ぬことだけを強制された空挺隊員たち

24日の戦況

 首里司令部東南の与那原方面および南西の那覇方面で米軍の攻撃が続いたが、首里司令部北方では昨日に引き続き米軍の攻勢は低調であった。
 第24師団長は、首里司令部東南の与那原方面に進出した米軍を撃退するため、師団作戦主任参謀苗代正治少佐を歩兵第89連隊に派遣して戦闘指導を援助した。同方面は激戦が繰り返され、与那覇南北の線を確保して米軍の進出を阻止したが、撃退できなかった。
 雨乞森南方約800メートルの大里東方に進出した米軍に対し、船舶工兵第23連隊はこの日未明、再び攻撃をおこなったが成功しなかった。
 那覇方面では、有力な米軍が那覇市に進出し、那覇市東側台地に特設第6連隊と対峙した。松川西方地区では、進攻した米軍に多大の損害を与えて撃退した。
 牛島司令官は第24師団が与那原方面の米軍を撃退しえないのを見て、海軍陸戦隊の一部(津嘉山警備隊)、軍砲兵隊編成の歩兵部隊約一個大隊、電信第36連隊の一個中隊、末吉方面の戦線に投入されている第2歩兵隊第3大隊(尾崎大隊約100名)を第24師団に増加した。
 また知念半島の重砲兵第7連隊および船舶工兵第23連隊を第24師団長の指揮下に入れ、与那原正面の米軍を撃退するよう督励した。
 軍はこの日の戦況を次のように報じた。

 敵ハ東西両海岸方面ニ兵力ヲ増強滲透攻撃ヲ強化シツツアリ 東海岸方面ノ敵(一、〇〇〇名)雨乞森、大里、古堅、六六・三、与那覇ニ進出ス 西海岸方面ハ一応之ヲ撃退セルモ更ニ一部ハ余儀ニ進出ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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双眼鏡で沖縄の地形を眺めるコミスキー二等軍曹 太平洋戦線歴戦の古参兵だそうだ 45年5月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-90-1】

沖縄北部の戦況

第二次恩納岳の戦闘 
 沖縄北部の恩納岳方面では、岩波隊長率いる第2護郷隊が遊撃戦を展開していた。5月21夜には、16日に続いて金武飛行場を襲撃した。23日には第2護郷隊に配属されている海軍二階堂隊が屋嘉方面の米軍陣地や自動車群を攻撃するなどした。こうした遊撃戦の状況と、米軍の国頭方面の掃討作戦もあり、米軍はこの日、恩納岳に迫砲撃を集中し、四周から恩納岳に迫ってきた(第二次恩納岳の戦闘)。26日には護郷隊指揮下の大鹿隊、田中隊が陣地に接近した米軍を攻撃するなどして、戦果をあげた。
 石川岳では21日に米軍の包囲攻撃をうけたため、同岳を拠点とする特設第1連隊青柳連隊長は23日夜、各隊に恩納岳への転進を命じ、独立歩兵第12大隊第2中隊(山添隊)は25日、青柳連隊長は27日、それぞれ恩納岳に到着した。青柳連隊長から山添隊を指揮下とすることを命じられた岩波隊長は、精鋭である同隊を第2中隊正面に配備し、第2中隊を予備とした。

軍参謀長の指示 
 第1護郷隊の村上隊長は13日、決死隊を編成し軍司令部へ伝令として派遣したところ、伝令班は無事に軍司令部に到着し、軍司令官から土産を託され、軍参謀長指示を受領して北上、この日無事に村上隊長のもとに帰還した。村上隊長は狂喜し、部隊の士気は大いに高まったという。
 軍参謀長の指示とは、国頭支隊宇土支隊長との連絡が途絶えたため、恩納岳、石川岳方面所在の青柳連隊長に国頭所在の全部隊を指揮させ、遊撃戦を展開させるとともに、第1、第2護郷隊は軍直轄とするというものであった。
 4月下旬、軍司令部から国頭方面へ北部連絡のため上陸した浦田挺進隊は、無線連絡が復活しないため、5月8日に岡軍曹や前田見習士官などを中心とする伝令を軍司令部に派遣させ、14日に到着した。岡軍曹は木村兵長を率い司令部を出撃し、23日に屋嘉に上陸した。上陸時、岡軍曹は米軍の攻撃により戦死し、木村兵長が久志岳の浦田少尉のもとに到着した。浦田挺進隊は26日に第1遊撃隊から先ほどの軍参謀長の指示を受領することになる。

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川向こうの那覇から狙ってくる狙撃兵の銃弾から身を隠す第22連隊第2大隊の海兵隊員 45年5月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-39-1】

義烈空挺隊による義号作戦

義烈空挺隊の編成と武装 
 奥山道郎大尉ひきいる義烈空挺隊168名はこの日、12機の重爆撃機に搭乗し、熊本の健軍飛行場から義号作戦・沖縄方面空挺特攻に出撃した。
 義烈空挺隊は第1挺進団挺進第1連隊第4中隊の選抜要員(奥山道郎隊長以下126名)と、陸軍中野学校諜報要員将校8名、下士官2名、そして軍用機を操縦し強行着陸をおこなう第3独立飛行隊97式重爆撃機12機(諏訪部忠一隊長以下32名)から編成され、沖縄の北、中飛行場に強行着陸し、駐機している米軍機や軍需品、飛行場施設の破壊と、その後の読谷方面でのゲリラ戦の展開による米軍の後方攪乱の二つの作戦(義号作戦)を目的としていた。なお中野学校出身の諜報要員が同乗しているのは、ゲリラ戦展開のためである。

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北飛行場に強行着陸した重爆機 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号94-14-4】

 もともと義烈空挺隊は、44年11月、サイパンのB-29の基地を空挺攻撃し、本土空襲を妨害するために編成された。45年1月になり、サイパン方面へ投入される予定であったが、米軍の硫黄島への攻撃が激化し、サイパンへの空挺作戦は中止された。硫黄島への米軍上陸により、一時、義烈空挺隊を硫黄島への空挺特攻に投入する作戦も検討されたが、結局このころになり沖縄方面空挺特攻へ投入されることになった。
 重爆撃機一機あたり14名の隊員が搭乗し、4機ごとに機上通信手、航法者がついた。兵器としては銃剣、軽機関銃、機関短銃、重擲弾筒、小銃、拳銃、手榴弾、二瓩柄付爆薬、一瓩爆発罐、破甲爆雷、手投爆雷、焼夷剤などを各隊員が装備し、あるいは分担して装備した。手榴弾にいたっては部隊全体で2000発以上も携行していた。まさに義烈空挺隊員たちは、武器弾薬爆弾を体中に身につけた「人間爆弾」となり、沖縄への突入を命じられたのである。
 もちろん空挺特攻に成功の望みはほとんどない。重爆機が米軍の迎撃にあえば、山のように搭載した爆弾や弾薬に引火・誘爆し、あっさりと墜落することは目に見えている。第32軍の八原高級参謀も、義号作戦が戦略的に意味のないことを理解していたと戦後回想しており、ただその死を恐れぬ姿に感動したのであった。いわば隊員たちは、ただ死ぬことだけを強制されていたともいっていいだろう。

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北飛行場に強行着陸した重爆機 中央に写っているのは黒焦げとなった隊員の遺体と思われる 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号94-20-1】

義烈空挺隊の出撃と強行着陸 
 この日午後6時40分、義烈空挺隊は健軍飛行場を出撃し沖縄方面へ向かった。奥山隊長率いる主力8機が北飛行場、副隊長格の渡部利夫大尉率いる4機が中飛行場に強行着陸する予定となっていた。途中4機が故障や航法未熟などの理由で不時着するなか、22時11分「只今飛行場突入」の無線通信が第6航空軍司令部に入った。その後、4機が対空砲火で撃墜されるが、1機が北飛行場の滑走路に強行着陸を成功させ、8人から12人の空挺隊員たちが飛び出して駐機していた米軍機に手榴弾を投げつけ、さらにドラム缶600個を燃やし、7万ガロンものガソリンを炎上させた。
 義烈空挺隊の戦闘については様々な記述があり、一定していないが、北飛行場への強行着陸は成功したものの中飛行場への強行着陸は成功しなかったようだ。また読谷山で10人の空挺隊員が米軍に殺害されたとの記述もあるが、これは対空砲火で読谷山付近で撃墜された空挺隊員のことをいうのだろうか、あるいは北飛行場を強襲した空挺隊員が読谷山まで転進して殺害されたのだろうか、判然としない。1人の空挺隊員は残波岬で殺害され、もう1人は敵陣を突破し6月12日ごろに第32軍の司令部に到着したともいわれる。
 いずれにせよ空挺特攻をうけた米軍では「北飛行場に異変あり」「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」などと緊迫した通信が飛び交い、飛行場に駐機していた米軍機を誘導するため、自ら無線で空母の位置を通信するほど大混乱に陥り、25日午前8時まで9時間前後、北飛行場の機能は喪失し、中飛行場も使用が制限された。しかし、ただそれだけであり、戦局の大勢は何もかわらなかった。

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北飛行場に強行着陸した義烈空挺隊の重爆機 牽引で移動させられようとしている 手前には隊員の遺体らしきものがある 45年5月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号94-38-4】

 沖縄へ向かう義烈空挺隊には、機上で食す補給食として海苔巻寿司、稲荷寿司、餅、卵、羊羹、キャラメル、果物が支給された。当時の食糧事情を考えると、大変豪勢な補給食であったように思うが、死地へ赴く隊員たちへの、地上部隊によるせめてものはなむけだったのだろうか。
 一方で、義烈空挺隊員には「撃滅錠」「熱地戦力源」といわれる「特攻薬」や「精力錠」なる薬品も支給されていた。戦時中、特攻隊員には「突撃錠」「特攻錠」などといわれる覚せい剤(ヒロポン)が支給されていたが、義烈空挺隊員に支給された「撃滅錠」「特攻薬」なる薬品も、おそらくそうした類のものではなかったろうか。
 機上でせめてもの心遣いの海苔巻寿司やキャラメルなどを食す隊員たちと、支給された覚せい剤らしき薬品を服薬する隊員たち。「特攻の現実」がここにあるといわざるをえない。

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北飛行場に強行着陸した重爆機と義烈空挺隊員の遺体 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号16-47-2】

「機密戦争日誌」より

 大本営陸軍部第20班(戦争指導班)の業務日誌「機密戦争日誌」のこの日の日誌には、次のようにある。

 昭和20年5月24日 木曜
  [略]
三、沖縄戦開始以来戦果左ノ如シ
  [略]
 B[海軍のことか]ハA[陸軍のことか]ノ兵力出シ惜シミヲ口ニシツツ全ク其状況不明ナリBカ最近沖縄作戦ノ責任問題ヲAノ兵力出シ惜シミヲ宣伝シ出来モセザルニ沖縄逆上陸作戦ヲ申入レ実行不能論ニヨリテ引キ込ミタルアリ。
四、迫水書記官長ヨリ沖縄作戦ニ伴フ政府ノ施策ニ関シ、左記ノ如ク総理ニ具申セル旨松谷秘書官ヨリ連絡アリ。
(四長官会議ニ於テ)
 イ、御前会議
 ロ、政府声明
 ハ、大詔渙発
 ニ、輿論指導方策
 ホ、憲法第三十一条ノ発動[非常大権の発動]
 ヘ、重臣ノ取扱ヒ
 ト、特攻兵器ノ査閲
何レモ着想可ナルモ之ヲ行ハシメントスル力ト組織ナシ。
国家ノ前途オソルヘシ
  [略]

※[]内は引用者註

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 AとB、すなわち陸海軍での沖縄戦の責任問題をめぐる政治的対立、責任のなすりつけあいを読み取れる。そして「輿論指導」「非常大権」といった沖縄戦の敗北をうけた国民の統制と戦時の緊急措置、非常措置の発動、さらには「重臣ノ取扱ヒ」など軍と政の暗闘などをめぐる処置が読み取れる。一方で、「何レモ着想可ナルモ之ヲ行ハシメントスル力ト組織ナシ」とあるように、対策は思い浮かぶがそれを実行する力はないという政府、軍の惨憺たる状況も読み取れる。

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米軍による爆撃で壊滅的な被害を受けた与那原の町 45年5月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-44-2】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は、沖縄戦の状況を次のように報じている。

敵新上陸を企図か
 戦勢一転を策し
  敵の補給活発化
   地上戦は不気味な静穏
【南西方面最前線基地特電二十二日発】次期攻勢を策する沖縄戦線の敵はさる十七日以来もっぱら増援兵力の揚陸と物資追送に狂奔して、二十日の如きは朝来戦車十輌乃至二十輌を伴った歩兵部隊が二百または三百の少数兵力を運玉森、大名、五七高地などに小規模の攻撃を加へ来ったのみで全戦線にわたって依然不気味な静穏を見せている、しかし嘉手納沖ならびに慶良間の両泊地には各二十五隻内外の輸送船が到着しているのが認められ、戦勢を一挙に決せんとしていることが看取される
  [略]
また北飛行場には大型機八、小型機七十、中飛行場には小型機五十機があり、さる十六日から使用を開始した伊江島の中飛行場にもP51七十機内外が認められ在地陸上機は総数二百機を算し、ほかに慶良間列島の水上基地にも水上機三十七機見受けられる

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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故郷の新聞を読む米陸軍兵士 45年5月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号07-22-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・読谷村史 「戦時記録」下巻
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)

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北飛行場に強行着陸した義烈空挺隊員を乗せた重爆機 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号16-49-2】