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【沖縄戦:1945年5月9日】前田高地の放棄 戦力低下による海軍部隊の陸戦投入 海軍沖縄方面根拠地隊と沖縄戦

9日の戦況─米軍じりじりと迫る

 第二防衛線右翼運玉森方面での米軍の攻勢は活発でなかった。
 幸地地区は連日米軍の猛攻をうけ、交代のため重複配備されていた守備隊の歩兵第22連隊第1、第3大隊および独立第28大隊は多大な損害を出した。米軍は、幸地南西500メートルの閉鎖曲線高地付近(現在の西原町幸地のアドベンチストメディカルセンター付近か)に進入したため近接戦闘となり、占領された。
 歩兵第22連隊長は、独立歩兵第28大隊および後方から増加された独立整備隊、航空修理廠などの要員を各大隊に増加し戦力増強をはかった。
 前田集落南側では一進一退の戦闘が続き、米軍は勝山集落南端まで進出した。
 歩兵第32連隊長は、石嶺付近の防禦を担っている戦車第27連隊に歩兵一個中隊を配属すべき師団命令を受け、第3中隊を派遣した。
 安波茶付近でも米軍は絶え間なく攻勢をかけていた。
 沢岻北西50メートル閉鎖曲線高地はこの日米軍に占領され、内間付近も猛攻をうけた。

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戦車とともに進軍する米兵 45年5月9日撮影:沖縄県公文書館【写真番号86-19-1】

前田高地の放棄

 第62師団長は、米軍に占領された前田高地奪回の見込みはなく、前田洞窟に籠って頑強に抵抗をつづける独立歩兵第12大隊(賀谷大隊)などの残存部隊の戦力も極度に低下していることから、賀谷大隊長に対し米軍の包囲を突破し撤退するよう命令した(米軍に包囲され孤立状態にあった前田洞窟だが、不思議なことに通信線は切断されず連絡が可能であった)。撤退の掩護のため、安波茶南側に配備されている独立歩兵第23大隊および第62師団輜重隊に救援の攻撃を命令した。
 また同じく洞窟に籠る歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)も撤退に向けて準備した。
 10日未明、賀谷大隊など各隊は洞窟を脱出して経塚方面、そして平良町方面へ撤退を開始したが、米軍に察知され機関銃の集中攻撃を浴び多大な損害を出した。
 賀谷大隊は平良到着後、配属部隊の配属解除など部隊を整理したが、このころには大隊の固有人員は大隊長以下100名となっていた。
 志村大隊も撤退を試みたが、賀谷大隊が撤退時に多大な損害を出したことをうけ撤退を中止した。
 志村大隊の機関銃中隊に配属されていた外間守善氏は、この日の撤退について次のように回想している。

 九日、賀谷大隊は第六十二師団長から洞窟の脱出命令を受け、大損害を受けながら経塚から石嶺方面に脱出した。賀谷大隊の伝令兵が志村大隊に飛び込んできたのは九日の午前零時頃だった。見覚えのある伝令兵は沖縄初年兵の山城清光君(沖縄師範)だった。殺伐とした第一線での奇遇だった。志村大隊も、第三十二連隊から連隊復帰の命令を受けたが賀谷大隊脱出後だったため、米軍に動きを知られてしまっていたようだ。先発隊として出発した一部は脱出できたが、最後尾についた大隊主力は脱出に失敗した。安波茶の谷あいまで行ったとき、台上から照明弾と重機の待ち伏せ攻撃を受けてしまったという。
 私は古謝衛生兵とともに洞窟内の負傷兵のあとしまつを命じられて最後尾に洞窟を出た。洞窟に残るよう指示した負傷兵たちは異常に気づいたのか、歩ける者はみな洞窟を出ようとした。手を怪我した者は足を怪我した者を背負った。他にも這いずって脱出しようとする者、泣き叫んで連れて行ってくれとせがむ者など騒乱の洞窟に化した。古謝衛生兵は四、五人の負傷兵と先行し、後事を私に託した。バケツに入った水と手榴弾を私の前へ置いた古謝衛生兵は声をひそめて「外間、最後の水だ」と言って「手榴弾も渡せ」と続けた。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 志村大隊の撤退にあたって負傷兵は水と手榴弾を渡されて取り残されたというのである。この手榴弾が何を意味するかはいうまでもないだろう。志村大隊は撤退を中止するものの、いずれにせよ戦争における命の軽さがわかるエピソードである。
 なお志村大隊はこれ以降5月末まで前田高地に籠りつづけた。その後、南上原に転進し、北部への移動を目指しながら結局9月まで投降しなかった。

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前線で負傷した海兵隊員への応急処置 45年5月9日:沖縄県公文書館【写真番号97-27-1】

海軍兵力の使用問題

 第32軍は地上兵力が損耗し戦力低下がはなはだしいことをうけ、沖縄に配備されていた海軍部隊である海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根、大田実司令官)から兵力を抽出し陸戦に投入することを計画した。
 海軍沖方根としては、海軍兵力の陸戦投入は、豊見城の海軍司令部壕を中心とする小禄地区の現陣地を放棄することになるため不利であり、新たに陸戦配置するにしてもそこで陣地を構築するための野戦築城資材もなく(シャベル、スコップ類をいう円匙すらなかったという)、陸戦の訓練も不十分であるから現在地で戦うことが最良と考えていた。そのため大田司令官はこの日、次の電報を発し佐世保鎮守府司令長官の指示を仰いだ。

   〇九〇二〇九番電
  佐鎮長官、軍令部次長、軍令部第一部長、総隊参謀長宛
 第三十二軍ハ首里ヲ包含両翼ヲ東西両岸ニ托スル現陣地帯ニ依リ飽ク迄長期戦略持久ヲ企図セルトコロ兵力損耗次第ニ増セル現状ノ為海軍部隊ヨリ機動可能兵力ヲ削キ現防備地区ヨリ首里方面ニ機動戦闘ニ参加セシメントスル計画アリ
  [略]
 結局海軍兵力ヲシテ要塞ヲ放棄シ要塞兵ヲ歩兵トシテ使用スルノ愚ヲ敢テトルモノニシテ第三十二軍ノ要望ニ添フガ如キ成果ヲ得ザルモノナリ
 本職ハ右兵力ヲ以テ現配備地区ニ就カシムル時ハ十分戦力ヲ発揮シ得ルヲ確信シアリ
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 この電報に対する直接の返電は確認できない。ただし第32軍参謀長も佐世保鎮守府(佐鎮)に海軍部隊の運用について連絡し、佐鎮は第32軍に海軍部隊が状況に応じて第32軍に投入され陸戦に協力するのは当然であるとしつつも、海軍部隊が現在地の陣地から離れれば弱体化するため、その点を含み置かれたいとの旨を連絡していることから、佐鎮より海軍沖方根にも同一の趣旨の返電があったものと思われる。

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爆破分隊によって撃破される洞窟 洞窟内には兵士や住民などいたのだろうか 45年5月9日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-30-2】

海軍沖縄方面根拠地隊について

 沖縄の海軍部隊である海軍沖縄方面根拠地隊は、もともとは44年4月に解隊された佐世保防備戦隊の兵力を基幹として第4海上護衛隊とともに新編された部隊であり、両隊の司令官は兼務であったが、戦局の緊迫により分離され、海軍小禄飛行場を中心に航空隊や震洋隊、魚雷艇隊、設営隊など約1万人の兵力を大田司令官が率いた。
 海軍沖方根は後に小禄に上陸した米軍と死闘を展開するが、1万人の兵員といっても正規兵は少なく、大半が防衛召集された兵員というような状態であった。陸戦投入が検討されるなかで、部隊に円匙すらなく野戦築城も難しい状態であったことは先ほど触れた通りだが、兵器も十分ではなかった。5月中旬、沖方根の第951航空隊沖縄派遣隊(「護」部隊)の一部が那覇方面の地上戦やシュガーローフ・ヒルでの戦闘に出撃するが、その際の武器として火炎ビンなどが含まれ、残留部隊には物資を運搬するレールを切り出した槍が大量に装備されていた。槍や火炎ビンで米軍に立ち向かい、白兵戦での抵抗を続けたというのだから、いかに惨憺たる状況であったか想像できる。
 また海軍というと何か開明的でスマートなイメージもありそうだが、沖縄では海軍震洋隊において兵士やいわゆる朝鮮人軍夫へのリンチなども目撃されているし、住民「スパイ」視は海軍も例外ではなかった。

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戦場でのミサ 45年5月9日撮影:沖縄県公文書館【写真番号74-06-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)

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旧海軍司令部壕(豊見城)内の司令官室:筆者撮影