【沖縄戦:1945年2月20日】中等学校単位の防衛隊結成へ─「鉄血勤皇隊」編成に向けた動きか 県幹部・県議会議員などの県外逃亡
「学徒ら赤誠の進軍」─沖縄新報は報じる
沖縄新報はこの日、県教学課が前日19日に、中等学校の教育に関する措置として、各中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)単位で男子生徒による防衛隊を組織し、学校の教育単位のまま郷土防衛の任にあたらせ、教員生徒らに24時間の集団生活を送らせると決定し、各学校長や県担当課長と協議したと報じる。
このころ既に17歳以上の者の防衛召集がおこなわれていたが、軍はそれに満たない中等学校や師範学校の下級の生徒の動員を考えており、1945年1月にはそれら男子生徒へ通信訓練を、女子生徒へ看護訓練を実施しはじめていた。
その後、2月上旬には県庁に各学校の生徒代表が集められ、「鉄血勤皇隊」の結成について伝達があった。その際、島田知事は「鉄血勤皇隊は戦闘部隊ではない」「空襲の際の消火や食糧増産などが主な任務である」などと訓示したというが、実際には戦闘部隊の一員となっていく。
そうした流れのなかで軍は3月3日、鉄血勤皇隊の訓練の援助と防衛召集の準備を行う「球作命甲第110号第32軍命令」を発することから、この日の各中等学校単位の防衛隊結成に関する取り決めは、これら一連の動きに関連するものであり、鉄血勤皇隊の前身となる防衛隊の結成、もしくは鉄血勤皇隊として軍に防衛召集されるまでの待機・準備段階の防衛隊の結成、あるいは鉄血勤皇隊の結成そのものをあらわすものかと思われる。
一中鉄血勤皇隊に召集された與座章健さんは次のように証言している。
ここでの與座さんの寄宿舎での合宿やそれを主体に鉄血勤皇隊が編成されたという証言は、この日の沖縄新報が伝える中等学校における防衛隊結成と合宿生活と関連があると思われる。
戦闘部隊としての鉄血勤皇隊
上述のように島田知事は2月上旬、県庁での鉄血勤皇隊結成の伝達において、「鉄血勤皇隊は戦闘部隊ではない」などと訓示したが、3月3日に軍が発した「球作命甲第110号第32軍命令」に関して県と軍が取り交わした「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」には、鉄血勤皇隊を編成し軍の戦闘に参加させること、鉄血勤皇隊に特攻訓練を含む軍事訓練を施すなどと記されている。
このように訓練の段階で実戦を意識したものであることがわかる。実際に鉄血勤皇隊は戦闘部隊の一員として軍の補助任務に就かされ、軍が米軍に追いつめられていくと「斬込み」といわれる敵陣への突撃・自爆攻撃を強制された。
第32軍八原高級参謀は戦後、鉄血勤皇隊の編成と防衛召集について次のように述べている。
八原高級参謀の手記からも軍が当初より鉄血勤皇隊を戦闘部隊として理解していたことが伺える。また鉄血勤皇隊の防衛召集は事実上の強制であり、その違法性が指摘されている。
水産学校鉄血勤皇隊 瀬底正賢さんの回想
1945年(昭和20)3月1日、水産学校鉄血勤皇隊として召集され、首里の第32軍司令部で情報・通信業務に従事させられた瀬底正賢さんは、南部撤退・摩文仁の司令部壕まで行動をともにし、以下のように最後を振り返る。
戦争によって体に傷を負った鉄血勤皇隊の若者も多くいただろうが、瀬底さんのように学友はじめ多くの親しい人の死を見続けた鉄血勤皇隊の若者たちの心の傷も深いものがあっただろう。沖縄戦研究では戦争による精神疾患も取り上げられ、少しずつ実態解明がすすめられている。
県幹部や県会議員の県外逃亡
このころ、県幹部や県会議員の沖縄県外への「逃亡」が目立ちはじめる。当時、疎開業務を担っていた沖縄県の人口課の課長は戦後、那覇市の校長が宮崎県に入ったまま雲隠れしたり、東京に出張した県幹部が行方不明になったり、疎開先の県知事に挨拶するという理由で沖縄を離れた県会議員がそのまま帰ってこなかったなどと証言している。
こうした事態をうけて、この日の沖縄新報の社説は「戦線離脱者 県外逃避戒む」として県幹部などの県外逃亡を次のように戒めている。
硫黄島の戦い
米軍はこの日早朝より艦砲射撃や艦載機の銃爆撃、砲兵の支援下、主力は元山飛行場、一部は摺鉢山に対し攻撃を開始した。元山飛行場方面への米軍の進攻は阻止したものの、千鳥飛行場方面への米軍の進攻は阻止できず、同飛行場は米軍に占拠された。摺鉢山の守備隊も米軍の火力に押され、徐々に後退していった。硫黄島守備隊は夜間に入ると挺進斬込み・肉攻といわれる生還を期さない自爆攻撃・自殺攻撃を繰り返した。
この日の米軍の進出線は以下の図の通りである。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉
トップ画像
米兵に助けられた鉄血勤皇隊 顔にはまだ幼さが残る:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード 02006062】