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【沖縄戦:1945年5月31日】「患者ハ自決シテ軍ノ転進ヲ容易ナラシメタリ」─大本営陸軍部戦況手簿に記録された傷病兵の「自決」

31日の戦況─米軍、首里占領

 首里司令部の後方陣地であった津嘉山陣地の東方では米軍の猛攻がおこなわれ、現在の南風原町東側や南城市北部が米軍に占領された。
 軍司令部から臨時に第62師団へ参謀として派遣されていた薬丸参謀は、津嘉山司令部に残置され軍情報所長として各兵団、特に第24師団の残置部隊や第62師団主力との連携にあたっていたが、薬丸参謀はこの日第32連隊長にその本部を歩兵第64旅団司令部洞窟に位置することを要請し、津嘉山司令部の防禦において歩兵第64旅団と歩兵第32連隊の連携を緊密にすることをはかった。
 津嘉山陣地南東では特設第3連隊が現南風原町山川、戦車第27連隊が同神里、独立歩兵第11大隊が現南城市大里高平、歩兵第63旅団司令部と特設第4連隊が同大里稲嶺、独立歩兵第13大隊が同大里大城を拠点として米軍に抵抗した。
 独立歩兵第11大隊は昨夜高平北側の米軍を攻撃したが不成功のため、この日夜再び攻撃を実施したものの、米軍を撃退できなかった。
 米軍はこの日、首里のほぼ全域を占領した。また首里の南である津嘉山陣地北側を収容陣地とした歩兵第32連隊は、首里南東まで進出してきた米軍と交戦した。
 また第24師団の第一線残置部隊は、この日各方面から滲透した米軍の包囲をうけ苦戦したが、この日夜米軍の間隙を縫って撤退を成功させた。
 独立歩兵第22大隊は津嘉山到着とともに歩兵第64旅団長の指揮下に復帰し、津嘉山北東高地に配備され与那原方面の米軍と対峙した。

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破壊されつくし荒廃しきった首里 キャプションには「戦闘から60日後の首里の町」とあるが、4月1日の米軍上陸から60日後という意味であろうか 45年5月31日撮影:沖縄県公文書館所蔵【写真番号06-26-1】

独立混成第44旅団の撤退 

 この日、那覇方面では与儀、松川南側地区一帯が戦車を伴う強力な米軍の攻撃をうけ、この日夕方には余儀南東57高地南北ー繁多川に西側までのラインに進出した。
 同方面を守備する独立混成第44旅団の鈴木旅団長が旅団主力の撤退を29日夜から31日夜に延期し、31日夜に一挙に撤退を行なうと意見具申したのは以前触れた通りである。
 鈴木旅団長は南部撤退の際の陣地占領を考慮し、主力撤退の前の29日夜、風部隊(中央航空路部沖縄航空路管区中村正八少佐の指揮する勤務中隊を主体とする特編大隊)を首里南南東8キロの新城付近に撤退させて旅団の陣地占領を掩護する陣地を占領させた。
 また同夜旅団工兵隊も新城南2キロの具志頭地区に後退させ、陣地および対戦車障害の構築を命じるなど、主力撤退の事前準備をさせた。
 さらに日時は不詳であるが、旅団砲兵隊を津嘉山南西4キロの平良に陣地変換させ、旅団の撤退掩護にあたらせた。その他、30日夜には独立混成第15連隊の一部をもって国場南側の高地に撤退掩護の陣地を占領させ。
 そしてこの日夜、旅団予備であった海軍丸山大隊を繁多川、識名、国場付近に残置し、旅団主力を後退させた。鈴木旅団長はこの日夜識名から津嘉山南西1キロの長堂に後退し、同地において米軍の重包囲を脱出してきた特設第6連隊長平賀中佐と合流し、同隊を掌握した。
 残置部隊となった海軍丸山大隊は、翌日6月1日米軍と激戦を交え、同日22時ごろ陣地を撤して津嘉山南西4キロの武富に後退した。丸山大隊は総員約220名中、120名の損害を生じた。
 鈴木旅団長は6月1日、摩文仁の北東約2キロの108・7高地に到着し、旅団主力は2日南部に撤退した。旅団砲兵隊は3日ごろまで平良付近で撤退掩護に任じた後のち南部の陣地に後退した。

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那覇方面の31日の米軍進出線と混成旅団(44MBs)の後退図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

傷病兵の「処置」「自決」について

 第32軍司令部はじめ各兵団各部隊の南部撤退にあたり、軍病院において重症患者(重症傷病兵)が「処置」という名で青酸カリを服用させられたり、消毒液を注射されるなどして毒殺、さらには手榴弾で「自決」を迫られたことについては、以前にも触れた。また、それは第32軍長参謀長の指示であり、その長参謀長の指示は陸軍作戦要務令に基づくものであること、そして重症患者の「処置」や「自決」の強要は硫黄島やガダルカナル島、アッツ島など内外の各戦場でも起きていたことについても触れた。
 沖縄戦場において、軍の南部撤退に際して重症患者の「処置」「自決」が発生していたことは、大本営も認識していた。大本営陸軍部戦況手簿のこの日の頁には次のようにある。

軍ノ転進ハ概ネ順調ニ進捗中 第一線及主陣地外ニアル病院ノ患者ハ自決シテ軍ノ転進ヲ容易ナラシメタリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 軍の南部撤退のため、軍病院などにおいて重症患者が「自決」したと明記されている。大本営の戦況手簿は当然、沖縄現地からの日々の戦況報告に基づいて記されているわけであり、軍病院で何が起きたのかを明瞭に語っている。そして、その「自決」が「軍ノ転進ヲ容易ナラシメタ」というところに、軍が撤退を速やかにかつ確実に実行するため、歩行不可能な重症患者に「自決」を強要した、すなわち「処置」をおこなったと言外ににおわせている。なお重症患者の「処置」「自決」については、南部撤退時の軍病院のみならず、例えば沖縄北部や中部でも第32軍の各部隊が陣地や壕から撤退転進する際にも発生している。

南部撤退時の重症患者の「処置」についての証言:NHK戦争証言アーカイブス

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与那原の南で爆撃の効果を観察する第7歩兵師団の前線観測兵 45年5月31日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-01-3】

小浜島、竹富島の戦争

 宮古、八重山諸島では英国艦隊の作戦行動が終了したものの、引き続き米軍による空襲などの攻撃がおこなわれた。この日も石垣島では早朝より米軍機が銃爆撃を繰り返し、海軍石垣島警備隊は「敵先島列島関心を有するものと判断」として、上陸を含む大規模な攻撃に警戒していた。
 これをうけた措置としてか、石垣町にあった竹富村役場が石垣島から西方約15キロメートル、石垣島と西表島の中間あたりに浮かぶ小浜島に移動した。
 『竹富町史』によると、小浜島には45年1に第38震洋隊という海軍の特攻艇部隊が配備された。部隊には震洋の特攻艇秘匿壕の建設の命令が出ていた。なお部隊は、小浜国民学校を兵舎として使用したため、子どもたちは近くの御嶽を仮の教室として授業をうけた。
 部隊はその後、学校への駐屯は敵の目につきやすいとして民家にも駐屯し、黒島家に司令本部を設け、兵士は集落の民家に分宿するなどした。

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子どもたちの仮教室が置かれた小浜島の嘉保根御嶽:筆者撮影

 第38震洋隊は1ヶ月ほど小浜島に駐屯した後、石垣島へ移動した。そして45年3月には第26震洋隊が小浜島に駐屯する。第26震洋隊も黒島家に司令本部を置きつつ、民家を使用するなどした。
 特攻艇の秘匿壕建設の建設作業には、いわゆる「朝鮮人軍夫」といわれる朝鮮出身の軍属や労働者が動員されたという。彼らは島の集落の長田家や仲盛家を宿泊先とし、毎朝トラックで作業現場まで連れていかれ、奴隷のようにこき使われたそうだ。
 また「慰安所」建設もすすめられ、わかっているだけで2か所の「慰安所」が建設された。軍は「慰安所」建設のため各家庭から畳を供出させたり、学校の床板をはがすなどしたという。

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小浜島のアールムティ海岸の特攻艇秘匿壕:筆者撮影

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)

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沖縄の高校教師の石川ユキコさんと女学生たち 海兵隊の説明によると、彼女らは日本軍の看護業務に従事していたが、軍の首里放棄・南部撤退により見捨てられ、壕に避難しているところを発見保護されたそうだ 45年6月撮影:沖縄県公文書館所蔵【写真番号78-32-2】