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【沖縄戦:1945年2月23日】沖縄師範学校男子生徒の学徒出陣激励会が開催 「私的制裁ニヨル逃亡兵多シ」─沖縄出身兵の脱走と第32軍の暴力的体質

沖縄師範学校男子部生徒の学徒出陣

 沖縄師範学校においてこの日、翌月3月1日に予定されている男子部学生の学徒出陣(徴兵、入営)に向けて、出陣学徒の激励会が開催される。沖縄新報は翌24日、激励会の様子を次のように報じている。

祝す学徒出陣
 沸る闘魂男師健児ら

戦局緊迫の要請により3月1日本県初の誉ある学徒出陣を送り出す師範学校男子部では23日午後1時から全校生徒羨望の中に出陣学徒の門出を祝し激励会を開催、野田校長の激励の辞に応へ出陣学徒の闘魂は沸ぎり灼熱の愛国心は必ず醜敵を粉砕し学徒兵の真価を発揮し、この光栄に報ひますと烈々講堂を圧し皇国護持精神の下出立つ学徒在校生徒は激戦一途の強行も互に折立ち合ひ決戦場沖縄の逞しさを発現した。

(『那覇市史』資料篇 第2巻中の2)

 この学徒出陣は、沖縄師範学校男子部鉄血勤皇隊としての「出陣」ではなく、激励会に先立つ沖縄師範学校生徒の徴兵猶予の解除に伴う徴兵、入隊を指すものと思われる。

沖縄出身兵の脱走と第32軍の暴力的体質

 沖縄には歩兵連隊が配備されていなかったため、沖縄で徴兵、召集された兵士は、熊本や久留米など九州の部隊に配属された。
 第32軍の沖縄配備以降は、上述の学徒出陣の兵士も含め、沖縄で徴兵、召集された兵士の多くは、第32軍の各部隊に配属されたが、実は軍内では沖縄出身兵の脱走が問題となっていた。
 例えば1944年10月、名護に駐屯していた第2歩兵隊第4中隊長は下士官以上を集め、「私的制裁ニヨル逃亡兵多シ 私的制裁ハヤメヨ」などと訓示している他、第32軍の「逃亡兵ハ主トシテ教育ノ不徹底ニヨルモノ多キヲ以テ各隊ハ教育ヲ徹底セラレ度」との通達も軍会報中の必要事項として第62師団内で通達されているなど、脱走兵が非常に大きな問題となっていた。なお、「初年次兵ノ離隊跡ヲ絶タザルニ付各隊ハ指導ヲ厳ニシカヽル事故ノ絶無ヲ期セラレ度」との軍会報もあるところから、脱走兵は初年兵が多く、ここでの初年兵は第32軍の沖縄配備以来の初年兵であろうところから、沖縄出身兵の脱走が多かったと考えられる。
 第32軍は1945年2月10日、軍法務部が「防犯資料第四号 逃亡犯に関する若干の参考」という報告書をまとめるなど、脱走兵問題について検討していたが、そこには次の記述がある。

七、沖縄県出身現地入営兵ノ逃亡
本県出身現地入営初年兵ニシテ[略]軍紀ヲ解セズ軽易ナ考ヘヨリ脱柵シ其ノ儘帰隊セザルモノアリ 又些細ノコトニ「オ前ハ銃殺ダ」ト申向ケラレ其レヲ真ニ信ジテ之ヲ虞レテ逃走スルモノアリ[略]

(「防犯資料第四号 逃亡犯に関する若干の参考」:『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 沖縄出身兵がおそらく上官に些細なことで「お前は銃殺だ」などと脅されたため脱走した事例が紹介されている。また、脱走の防止として「私的制裁絶滅対策」が打ち出されている。こうしたことを見ると、先ほどの「私的制裁ニヨル逃亡兵多シ 私的制裁ハヤメヨ」といった訓示とともに、暴行暴言など軍内部の暴力的体質が脱走の主因であることは明白である。
 実際に第32軍内部の暴力的体質は深刻なものがあり、入営1ヶ月程度の多数の沖縄出身初年兵が上等兵らによって殴る蹴るの暴行をうけていたのを見たという証言も残っている。また、それ以外にも軍隊内部で本土出身の兵隊に「お前は沖縄人だから死んでもいい」「お前たちの島だからしっかりやれ、僕たちには関係ない」との暴言をいわれたという沖縄出身兵の証言もあるが、こうした第32軍の暴力的体質、特に沖縄出身兵への差別、蔑視も含む暴力的体質が脱走を生んだと思われる。

硫黄島の戦い

摺鉢山地区 
 米軍はこの日朝から摺鉢山の山頂への攻撃を開始し、10時過ぎには米軍の一部が摺鉢山北東側の登山道から近接し、約1個小隊からなる山頂守備の残存者数名と戦闘の後、10時20分ごろには摺鉢山山頂に星条旗が翻った。米軍が摺鉢山を占領し島全体を見渡せる要地を手に入れたことは、士気の上でも戦術の上でも硫黄島守備隊に大きな影響をおよぼした。
 摺鉢山地区の松下地区隊長と独立歩兵第312大隊長の長田大尉はこの日、摺鉢山地区の米軍の包囲を突破し主力の混成第2旅団主力への合流を企図し、前日に閉塞された地下壕の入口を開口し陸海軍約300名で総攻撃を敢行した。そして23時ごろから出撃し敵線に潜入したが、米軍に発見され摺鉢山地区内で120名が戦死した。残る主力は、なお敵線を突破しようとしたが大半が戦死し、結局25名程度が混成第2旅団主力への合流に成功した。

西地区 
 西地区隊は、主陣地および阿蘇台周辺の前方拠点を確保し、約1個戦車中隊を含む米軍の約1個連隊を迎撃し、その前進を阻止した。

海軍航空隊 
 海軍第7基地航空部隊は、硫黄島周辺の米艦船を攻撃するため、木更津基地より陸攻機6機を出撃させ、18時26分から19時9分にかけて、2機で千鳥飛行場を、1機ずつで南・西揚陸点を爆撃し、4機帰還2機未帰還との結果だった。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉

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軍事教練に参加する沖縄師範学校生徒:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02001799】