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【沖縄戦:1945年5月17日】シュガーローフ争奪戦つづく 米軍金武飛行場襲撃など第2護郷隊のゲリラ戦

シュガーローフ・ヒル争奪戦

 首里司令部西方・那覇北方地区では、引き続き日米がシュガーローフ・ヒルの争奪戦を繰り広げた。この日夜明けとともに独立混成第15連隊第1大隊が、大隊長みずから部隊を率いて米軍を逆襲し高地を確保した。一方、米軍は朝方より猛烈な砲爆撃の支援のもとで戦車を伴ってシュガーローフおよびハーフムーン・ヒル(クレセント・ヒルとも)に猛攻を開始した。シュガーローフでは守備隊が包囲され接戦となったが、米軍を撃退した。

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シュガーローフ、ハーフムーン、ホースシュアの位置関係:特集「島は戦場だった 地獄の丘シュガーローフの戦い」(琉球朝日放送報道制作局)

 ハーフムーン北側高地は米軍に占領され、ハーフムーン東側の独立混成第15連隊の連隊砲陣地も米軍の馬乗り攻撃をうけた。同連隊第3大隊は連隊砲陣地の奪回攻撃をおこなったが失敗した。

 十七日の作戦ではシュガー・ローフを東側から攻撃することになった。第二九海兵連隊の第一と第三大隊がまずクレセント高地を攻撃し、そこを確保して第二大隊を支援してシュガー・ローフを占領することになった。
 攻撃開始に先立って、四十センチ砲や曲射砲による砲撃や、飛行機で四百五十キロ爆弾を落としての猛爆が加えられた。午前八時三十分、第一、第三大隊から海兵隊が、クレセント高地の西端を襲った。戦車と歩兵が砲兵の支援を得て多くの陣地を破壊し、この進撃でシュガー・ローフの東部がくずれ、第二大隊のE中隊が左翼に回って攻撃を開始した。
 クレセント攻撃がまだ続行されているあいだ、第二大隊の海兵隊はシュガー・ローフのほうに進んでいった。最初は大がかりな攻撃で鉄道路線を切断しようとしたが、左方からの砲火で失敗に終わり、また接近戦を試みようとしたが、これも斜面が急勾配のため、かなわなかった。そこでE中隊の二個小隊は、丘の北東部の斜面を利用して頂上にたどりついた。しかし、この頂上制圧のさい、米軍は日本軍の猛爆撃にあって、ふたたび頂上から駆逐されてしまった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 なお第32軍はこの日、海軍の1個大隊(伊藤大隊)を独立混成第44旅団の指揮下に入れ、牧志町(安里南側)付近の防備を強化させた。
 なお独立混成第15連隊や海軍部隊はシュガーローフやハーフムーンに移動し戦闘するにあたり、旧陣地周辺の壕に避難していた青年壮年の男女を義勇隊として動員し、弾薬や食糧の運搬あるいは戦闘への参加を強制したといわれる。

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日本軍狙撃兵の攻撃が激しいなか、見通しのきく土地を進まねばならない海兵隊員 一時的に廃屋で身を隠している 45年5月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-21-2】

その他の戦況

 首里司令部北方および北西も米軍の猛攻をうけた。平良町台地、大名高地、末吉北側および南側の守備隊は米軍を撃退したが、平良町台地の一角は米軍に占領された。この日夜、独立歩兵第13大隊長は、同大隊の吉田隊(第2中隊)を末吉北側高地に、庄子隊(第1、第4、第5中隊の残存者で編成)を末吉南側高地に配備した。

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首里北方から東方にかけての要図 13日の戦況図だが、地名や位置関係の理解のために参照されたい:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 首里司令部北東の石嶺高地では未明に米軍に奇襲され、朝6時ごろには同高地頂上付近の戦車第27連隊本部壕付近まで侵入された。戦車連隊は反撃し、日米の砲弾が終日飛び交うなかで米軍を撃退したが、戦車連隊の損害も多大であった。
 石嶺東方130、140、150の各高地(現在の那覇市首里石嶺町2丁目市営住宅付近か)でも米軍の攻勢がつづき、140高地頂上は一時米軍の進出を許した。130高地は背後に迂回した米軍から攻撃され、洞窟陣地の一部は閉塞された。150高地の伊東大隊は同高地の西半部を固守したが、死傷者が続出した。この夜、伊東大隊の重田主計中尉が後方部隊による増援の兵約70名を引き連れ150高地に向かったが、130高地付近で射撃をうけ部隊は四散状態となり、重田中尉のみが伊東大隊に到着し、糧食と弾薬を補給したといわれる。
 首里司令部東方運玉森方面においては、運玉森北西100メートル閉鎖曲線高地で接戦となったが、その他の地区では米軍の攻撃は活発でなかった。
 なお軍はこの日、貨物廠関係で編成される特設第4連隊の第1、第2大隊を第24師団長に配属した。これをうけ同師団長は第1大隊を歩兵第32連隊に、第2大隊を戦車第27連隊に配属し、戦力を補充した。
 軍はこの日の戦況を次のように報告した。

一 早朝来運玉森ー桃原西方ー西原村ー一五〇高地ー大名ー末吉ー真嘉比ー安里ノ線ニ於テ激戦中ニシテ西原村一五〇高地ハ早朝敵ニ奪取セラレタルモ之カ奪回ヲ企図ス 其ノ他ノ戦線変化ナシ敵ハ七師団正面ニ新ナル兵力ヲ投入セルノ徴アリ
二 来襲機数 本島一四五高地
三 五月十四日~十六日ノ地上戦果
 人約六、〇〇〇、戦車六六、火砲六、迫撃砲二五

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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線路に沿って進軍する戦車とその後方を進む海兵隊員 45年5月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-28-3】

護郷隊の戦闘

 4月13日から30日までの第一次恩納岳の戦闘を戦った岩波隊長率いる第4遊撃隊(第2護郷隊)は、5月初頭からゲリラ戦を再開し、このころには米軍が建設していた飛行場を襲撃したり、橋梁を破壊するなどのゲリラ戦を繰り返していた。13日には同隊の指揮下にあった第44飛行場大隊の田中隊主力が恩納飛行場の建設のため集結した米軍を襲撃し、相当の戦果をおさめたことは既に述べた通りである。
 第4遊撃隊はこれ以降も14日には同隊第1中隊および同隊の指揮下にあった海軍二階堂隊の一部が久志方面で遊撃戦をおこなった。16日には建設中の金武飛行場を徹底的に建設・使用不能とするため、主力をもって攻撃し、相当の戦果をおさめた。また18日には同隊第2、第3中隊、田中隊、19日には二階堂隊がそれぞれ東西両沿岸道の橋梁破壊や伏撃を実施した。これにより米軍は夜間の車両通行を中止し、路上に多数の警戒兵を配備して橋梁修理をおこなうなどした。
 第4遊撃隊による金武飛行場の襲撃は成功し、その様子は「擲弾筒の集中砲火で大音響と共に天をもこがす火柱があちこちに立ち上がり、夜空を真紅にそめる大戦果となった」といわれる。しかし、こうした「大戦果」のかげには、少年を即席の「少年兵」として戦場に動員したゲリラ戦の実態がある。例えば襲撃のための偵察には、護郷隊の兵員の主体である少年兵が民間人の子どもに変装し米軍施設の偵察などを命じられた。当然、少年兵の死傷は相次ぎ、米軍による子どもや民間人殺害の要因ともなっていく。
 子どもであることを利用し偵察活動をしたこと、また金武飛行場の襲撃について、第4遊撃隊員であった金城幸昭さんは次のように証言している。

 最初はアメリカの所に行くと、護郷隊とわからん前は自分たちにお菓子くれたり煙草くれたり、いろんなことしよったですよ。後から金武の飛行場の燃料爆発やったり、全部やったもんだからばれて。後からはもう何かくれたりしなかったですがね。金武のアメリカの所に、子供の着物を着けてですよ。もちろん、軍服は着けていかないですよ。ふふふ。
 ──子供のふりしてもぐり込むのはドキドキしませんでした?
 それはもちろんやりますよ。アメリカと話もしながら、本当は、目は様子を見ているわけだから。覚えて帰るんだから。相手の動き、どのくらいの人数か、どこに何があるか、そういったもんですよ。小隊長に報告するわけ。[略]
 ──金武の飛行場でガソリンタンクを集めて燃やして、大成功だったんですよね?
 これには参加してた。大成功だったですよ。爆薬で。これが仕事だのに。そういったこともやるし、車をひっくり返したり、全部爆薬担当の仕事ですから。ずっと燃えて、収容されてた沖縄の人たちも逃げたりしたんだけど、後で自分たちがやったんだよと言っても、物笑いにされましたよ。本気にしていなかった。GMC(米軍のトラックの通称)をひっくり返したり、擲弾筒で全部ひっくり返した。擲弾筒はいい兵器でしたよ、効果的だった。また、中南部から来たほかの部隊も重機関銃持っておったもんだから、堂々と道に出て行ってアメリカ来るの撃ってから、一緒に食糧全部奪ったりしよったですがね。

(三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』集英社新書)

第4遊撃隊員として金武の米軍拠点の襲撃のための偵察を実行した玉那覇有義さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス「“子ども”を利用した作戦」

 また橋梁の破壊は避難する民間人を足止めすることになり、日本人をも苦しめることになった。
 橋梁の破壊について、第4遊撃隊員であった瑞慶山良光さんは次のように証言している。

 ──良光さんは許田の橋の爆破に加わったんですか?
 そうそう。爆破の前に避難民を止めるわけ。ここは爆破するから通っていかんよって、鉄砲構えて。爆破した時にはね、ババーンと音立てて、いっぺんで真ん中が沈没したからね。
 ──住民が避難するのに困る、と苦情はなかったですか?
 住民はみな無口。もう喋る元気もないよ。かわいそう、といえばこの爆破でグラマン(米軍の戦闘機)の標的になってしまって、機銃掃射を受けた。低空飛行で、住民たちも殺られて。死体も放ってみんな逃げて行った。[略]

(上掲三上書)

 さらに第4遊撃隊の野戦病院には負傷兵があふれていたが、軍医が撤退時、少年兵を含む複数の兵士を銃殺したという証言が残っている。
 第4遊撃隊のゲリラ戦の再開もあってか、5月24日から米軍は再び恩納岳の第4遊撃隊への攻撃を開始し(第二次恩納岳の戦闘)、第4遊撃隊の陣地の一角が占領され、相当の死傷者を出した。これをうけ岩波隊長は名護方面へ転進し、第3遊撃隊(第1護郷隊)の村上治夫隊長と会った上で、7月16日に部隊を解散し秘密戦を展開することとした。
 なお岩波隊長および各中隊長は10月2日に米軍に投降することになるが、こうした動向についてはまたあらためて取り上げたい。

軍医による戦友の射殺を目撃した第4遊撃隊員の仲泊栄吉さん:NHK戦争証言アーカイブス 「戦場で知った死の恐怖」

新聞報道より

 大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況について次のように報じている。

侮り難き敵鉄量攻勢、大砲を小銃代りに乱射
【沖縄本島最前線にて宗貞特派員発】沖縄戦場は誠に悽愴苛烈である、物量を恃みとする敵の攻撃方法は決して我々がかつて想像していたやうな生やさしいものではなく、今沖縄本島では我々が住む地区はどこへ行っても四六時中敵の砲爆撃と空爆が連続する、我々にゆっくりと天日を仰ぐ余裕も与へなければ飯を食ふ暇さへなかなか与へぬほど熾烈を極めている、殊に交通の要衝陣地附近にはよく弾が続くものだと感心するほどだ、某部隊長が「砲爆や太鼓叩きの畑打ち」と川柳で揶揄したほどだ、現在島々の陸地に残されている弾痕は一坪あたり平均一個といふ激しさで敵は明かに大砲を小銃代用に使っているのだ、ところで愉快なのは、執拗な砲爆を冒して活躍する人々の割合被害の少いことで、わづかな隙を狙って俊敏に活躍を続けている、師範学校全生徒を網羅する「鉄血勤皇隊」をはじめ警察官を中心とする義勇隊員や無線局員たちは弾雨下を潜って勇敢に活動し鉄血勤皇隊は全員三百六十名を、三班にわけて斬込隊、作業隊、情報宣伝隊としそれぞれ直接軍に協力、沖縄白虎隊の感がある、敵の物量戦に対するわが方の肉攻斬込は戦局の緊迫熾烈化とともにいよいよ凄く、また敵の斬込に対する警戒防禦方法も侮り難いものがあり、沖縄はまさに血戦の火花を散らしている

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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音楽を聴きに集まって来た沖縄の子供たちに蓄音機をかけてみせる米兵たち この画像は直接関係ないが、護郷隊のゲリラのための偵察は、こうして少年を装い行なわれた 45年5月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-79-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦

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首里攻防戦において、丘の上に戦友の遺体を見つけ泣き崩れる海兵隊員と慰める海兵隊員 45年5月:沖縄県公文書館【写真番号88-02-2】