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【沖縄戦:1945年5月20日】「沖縄はあと二週間なれば」─軍中央、中央政界が正確に予測していた沖縄戦の敗北のタイムスケジュール

首里司令部西方の戦況

 首里司令部西方、那覇北方では、全正面で米軍の攻撃がおこなわれた。安里から崇元寺方面の防衛にあたる独立混成第15連隊第2大隊は、連日の米軍の猛攻に対し頑強に抵抗を続けたが、戦力の低下著しく、この日午後井上大隊長は訣別電報を連隊長に送り、夜に入り主力を率いて斬込みを敢行し、大隊長以下ほとんどが戦死した。
 同連隊右翼においても米軍の一部が松川北西に進出してきた。連隊長は同方面を守備する第3大隊の戦力が低下したため、同大隊の陣地を松川を中心とする地区に後退させた。
 軍はこの日、第2野戦築城隊第3中隊を那覇方面の防衛を担う独立混成第44旅団長に配属し、防備を強化した。また那覇正面が突破された場合に対処するため、混成旅団長に対し首里南西台地に第二線の防禦陣地を準備させた。

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幕僚たちに総攻撃の目標を指示する第4海兵連隊司令官シャプリー大佐 45年5月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-02-1】

首里司令部北方の戦況

 首里司令部北方の末吉南側の高地帯はこの日、戦車を伴う米軍の猛攻をうけ、同高地帯の陣地は多大の損害を生じ、馬乗り攻撃をうけるまでに至った。守備隊の独立機関銃第4大隊および大隊長指揮下の独立歩兵第13大隊庄子隊など各隊は奮戦を続けたが、陣地の一部は米軍に占領された。
 また末吉地区に隣接する大名高地もこの日、北東および北西から米軍の攻撃をうけ接戦となり、同高地の一部は米軍に占領された。それでも主要陣地は確保し、守備隊の独立歩兵第22大隊長は所在部隊を各陣地に補充配備し、陣地確保に努めた。

 第一海兵師団は、二十日の朝、二手にわかれて、大名丘陵攻撃の砲火をひらいた。第三大隊が南東から攻めあげ、第二大隊は丘陵が東方にのびている"百メートル高地”に向かって、進撃を開始することになった。
 戦車隊や自動操縦砲、および三十七ミリ砲の掩護砲撃を得て、第二大隊は"百メートル高地”のふもとにすみやかに進撃した。先攻の三小隊は、丘陵南側から撃ち出される日本軍銃火のために丘陵上で行き詰ったが、別の中隊が来て、その銃火の中をかいくぐって攻撃をつづけていった。
 日が暮れて第二大隊は、ついに丘陵の一部を確保することができた。だが、"百メートル高地”は、まだまだ日本軍の手中にあった。激しい接近戦の結果でも、第三大隊は丘陵西部の丘腹では、わずかに六十メートルほどしか前進していなかった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

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海兵隊と陸軍看護兵 浦添村青年団の旗を興味深そうに眺めている 45年5月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号100-20-2】

首里司令部北東および東方の戦況

 首里司令部北東の130、140、150の各高地は完全に米軍の制圧をうけ、各陣地は破壊され、洞窟は封鎖される状況となった。各高地の守備隊はこの日夜、脱出を命じられ撤退した。150高地の伊東大隊などは、大隊長以下25名といった悲惨な状況であった。
 同じく首里北東の石嶺高地では戦車第27連隊と米軍の激戦がつづいたが、陣地は確保した。
 なお第24師団長はこの日(もしくは前夜)、石嶺東方を守備する中地区隊を担っていた歩兵第22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命令した。
 歩兵第22連隊配属中の独立速射砲第3大隊長はこの日朝、次の命令を発している。

   独速第三大隊命令 五月二〇日〇八四〇 戦撃山
一 歩兵第二十二連隊(第二大隊欠)ハ中地区隊ノ守備ヲ歩兵第三十二連隊ト交代シ師団予備トナル
二 大隊ハ現在地ニ於テ歩兵第三十二連隊長ノ指揮下ニ入ラシメラル
三 各隊ハ現在地ニ於テ依然現任務ヲ続行スヘシ 特ニ陣地強化ニ勉ムヘシ
四 予ハ現在地ニ在リ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 歩兵第32連隊はじめ中地区隊の兵力は次の通りであった。

◆歩兵第32連隊──第3・第9中隊欠(戦車連隊に配属中)、第2大隊(志村大隊)は前田洞窟から未帰還
◆独立第29大隊──130高地での激戦により戦力低下、歩兵第32連隊第2大隊と改称
◆独立機関銃第3大隊──第2・第3中隊欠(第2中隊は歩兵第22連隊に、第3中隊は歩兵第89連隊に配属中)
◆独立機関銃第17大隊主力──第2中隊欠(戦車連隊に配属中、なお第2中隊の第2小隊は歩兵第22連隊に配属中)
◆独立速射砲第3大隊──第2中隊欠(戦車連隊に配属中)
◆特設第4連隊第1大隊

 なお独立速射砲第3大隊は、翌21日以降、独立第29大隊を指揮下とした。

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首里司令部北東、中地区隊の配備要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 首里司令部東方の運玉森(コニカル・ヒル)では米軍の猛攻をうけ、運玉森南東側斜面が米軍に占領された。守備隊は夜襲をおこなったが撃退できなかった。運玉森北西100メートル閉鎖曲線高地の洞窟陣地では、依然接戦が展開された。

知念半島方面での米軍の行動

 この日早朝、米艦船が久高島(沖縄南部の知念半島の沖合の島)を砲撃するとともに、島尻方面の湊川河口の奥武島に米軍部隊が一時上陸するなどした。また小禄方面では昨19日、米軍がサンゴ礁のリーフを破壊し、砲爆撃をくわえたことから上陸について警戒していた。
 これらの情勢を鑑み、第32軍司令部は知念半島方面へ米軍部隊の上陸の可能性が大として、同方面への米艦船に対する航空攻撃を要請した。

 球参電第四〇六号(二十日二三一〇発電)
 敵西南海上北上中ナルト左記ノ状況ニ鑑ミ明二十一□□[判読不能]以降陸海軍ノ攻勢ニ策応シ知念半島方面ノ正面ニ対スル新上陸ノ算大ナリ
 軍ハ目下全兵力ヲ北方戦線ニ投入シアリテ島尻海岸ニ対スル敵ノ新上陸ハ軍ノ作戦ニ致命的ナリ 依ツテ航空攻撃ハ全力ヲ新上陸方面艦船ニ指向シ之ヲ決定的ニ撃滅セラレ度切望ス
  [略]

(上掲戦史叢書)

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沖縄で亡くなった民間人の埋葬の様子 親類もおらず、簡素におこなわれたという 45年5月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-26-1】

義号作戦について

 第6航空軍はこの日、作戦会議を開催し、義烈空挺隊による沖縄方面空挺特攻作戦である義号作戦について検討をおこなった。これにより義号作戦は、米軍の新上陸など情勢のいかんにかかわらず、22日に決行と決まった。第6航空軍菅原司令官はこの日、次のとおり義号作戦指導要領を決裁した。

    作戦方針
 義号部隊ヲ以テ沖縄(北)(中)両飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ 其ノ機ニ乗シ陸海航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス
    作戦指導要領
一 義号部隊ハ X 日日没頃(一九二〇頃)熊本ヲ出発シ列島線西側ヲ航進シ沖縄本島北方海面ニ出テ超低空飛行ヲ以テ概ネ二三二〇頃主力(八機)ヲ以テ沖縄北飛行場、一部(四機)ヲ以テ沖縄中飛行場ニ強行着陸ス 前進間危急ノ場合ノ他無線ヲ封止ス
二 義号部隊強行着陸ニ成功セハ直チニ所在敵機竝集積軍需品、施設ヲ爆砕シ、且能フ限リ飛行場附近ニ存在シテ敵ノ飛行場使用ヲ妨害ス
三 第三独立飛行隊員(空中勤務者)ハ着陸ト共ニ義烈空挺隊長奥山大尉ノ指揮下ニ入ラシム 空挺隊ハ着陸後無線ヲ以テ軍トノ連絡ヲ実施ス 之カ為飛二号無線機一ヲ携行セシム
  [略]

(戦史叢書『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』)

 ただし天候不良がつづき、義烈空挺隊による空挺特攻は実際には24日に決行されることになる。

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米軍中尉に「米軍は、これまでいわれていたプロパガンダとは全く違って親切であり、有難く思っている」との趣旨のメッセージを手渡すアラタキクエさん ただし、アラタキクエさんには何の罪もないが、そうした行為そのものが米軍のプロパガンダである可能性は否定できない 45年5月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-25-4】

中央における沖縄戦の敗北についての認識

 第二次近衛文麿内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた細川護貞の日記『細川日記』の5月24日付の日記には次のようにある。

そこでは公[近衛のこと─引用者註]は木戸内府の話を聞き、直に富田氏を以て高木少将に連絡せしめ、大要以上の話となりたるも、阿南は目下九州旅行中にて二十日帰京、沖縄はあと二週間なれば、その間に最高戦争指導会議で、米内海相より発言あるべく、[略]

(玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』榕樹書林)

 日記の内容そのものは、近衛が戦争終結、講和に向けて様々な画策をしているというものだが、そこでの「沖縄はあと二週間なれば」との言葉に注意したい。
 第32軍の首里放棄・南部撤退は5月の終わりに実施されるが、この時点で軍中央や中央政界が第32軍の首里放棄・南部撤退を確実なものとして把握していたとは考え難い(第32軍内部でも首里放棄・南部撤退はこの時点では正式決定していなかった)。おそらく「あと二週間」とは、首里での玉砕を見越しての予測であろう。そして第32軍が首里放棄、南部撤退せず、首里を最後の戦場として戦闘を続行していれば、およそ6月初頭に玉砕していただろうから、「沖縄はあと二週間なれば」との戦況認識は、非常に正確なものであったといえる。仮に首里放棄・南部撤退を見越した上での予測だとしても、第32軍壊滅は6月23日であることから、「あと二週間」との予測がそう大きくはずれているとはいえない。
 この発言が20日に帰京した際の阿南陸相のものなのか、近衛のものなのか判然としない部分もあるが、確かに阿南陸相は17日より3日間の日程で九州を視察しており、そのあいだに沖縄の戦況が急転していることから、阿南陸相の20日の発言と考えることもできる。そうすると陸軍中央はこの時点で沖縄戦の終わりについて正確な認識を持っていたといえる。
 仮に近衛など阿南陸相以外の発言だとしても、中央政界においてはすでに「沖縄はあと二週間なれば」との認識がひろまっており、宮崎周一作戦部長の沖縄戦の冷徹な見通しなどを踏まえれば、それは軍もほとんど同様の認識であったと考えていいだろう。
 軍中央も中央政界も沖縄戦の勝利の見通しなどまったくなく、「沖縄はあと二週間なれば」と認識しているのであれば、少しでも犠牲者を減らすための何らかの処置はできなかったのだろうかと思わざるをえない。

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下原付近の畑でイモを収穫する民間の女性たち 収穫された農作物は収容所内で配給される 45年5月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-28-4】

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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大名高地の日本軍を攻撃する米第1海兵師団の兵士:沖縄県公文書館【写真番号85-08-1】