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【沖縄戦:1945年1月31日】島田叡知事、沖縄に着任─県民を思いやることと軍に協力し戦争を遂行すること

島田知事の沖縄着任

 1月12日、泉守紀沖縄県知事が香川県知事に、島田叡大阪府内政部長が沖縄県知事にそれぞれ任命され、泉知事は17日に香川に、島田知事はこの日、空路で沖縄に着任した。
 島田知事は1901年(明治34)に神戸の須磨に生まれ、旧制三高や東京帝大で学び、内務官僚として千葉県総務部長、愛知県警察部長などの要職を歴任した。島田知事は43歳の若き知事だが、驕ったところがなく、非常に優しく、人当たりも丁寧だったといわれる。なお島田知事は旧制三高時代、野球部に所属しており、そのころの写真が今も残っている。沖縄では「島田叡杯」という野球大会もあるようだ。
 戦闘帽、脚絆、国民服姿の島田知事は沖縄着任後、ただちに沖縄県護国神社と波上宮を参拝して着任を奉告し、十・十空襲の被害も痛々しい県庁へ赴き、知事室で各部局長から挨拶をうけるとともに、記者会見をおこなった。翌日2月1日の沖縄新報によると、島田知事は記者団に「明朗にやらうぢやないか」などと語ったそうだ。
 島田知事はその後、県会議事堂で全職員に訓示した。同じく2月1日の沖縄新報によると、この時の訓示で島田知事は、職員が空襲下、よく職域に挺身したことに感謝を表し、

これから何度大きな試練を経るか知れない、ほんとうの奮闘はこれから一所になって共々に勝利への途に突進しよう

(『沖縄県議会史』第12巻 資料編9 新聞集成Ⅱ)

などと訓示した。
 以降、島田知事は警防の強化、人口調整(疎開)、食糧自給の達成、自主輸送の確立などを目標にあげ、台湾に赴き米を確保したり、県民の北部疎開を進めるなど、職務に励むことになる。
 こうした島田知事の仕事ぶりや、島田知事に実際に接した人々による知事の回想を見ると、島田知事は県民の生活を第一に考えた知事であり、職務に精励し、人格的にも清廉潔白な人物であったことは間違いがない。それは島田知事が沖縄県知事に任命された直後の1月14日の沖縄新報で、沖縄県伊場内政部長が島田知事について次のように語っているところからも明らかであろう。

島田長官は前から公私ともに非常に懇意にして居り同時に仕事の上或は生活の上でも特別の交りをしている新長官の性格を一言にして云へばとても明朗性のスポーツマンで豪放磊落で少しも知事づらとか部長づらといふやうな官吏顔のない坦々たる学生肌そのものである大体警察畑の人でとてもよく部下をいたはる人だ

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

島田知事による軍への協力と戦争遂行

 他方、軍も島田知事を高く評価していることに注意したい。戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』によると、島田知事着任後、県庁内部の空気が一新され、軍との関係が円滑に進むようになったとある。
 すなわち前任の泉知事は、事実上の軍政下となった沖縄において、しばしば軍と対立した。泉知事は県政が軍のための陣地構築などを優先していくなかで、「大土木課長でもいればいいことになった」と嘆くこともあったという。また軍による「慰安所」の設置要求を拒み、県施設の接収などにも反対したそうだ。
 泉県政と軍の齟齬が目立つなか、新たに着任した島田知事は第32軍牛島司令官をよく尊敬し、軍に協力し戦時行政を遂行した。また島田知事は、鉄血勤皇隊の編制や離島残置諜者による諜報活動への協力もおこなっている。実際、「軍事を語るな、スパイの発見逮捕に注意」との島田知事の訓示も残っている。そもそも島田知事と牛島司令官は以前より親交があり、牛島司令官が満州で陸軍公主嶺学校長を務めていた折、島田知事が中国の上海に駐在しており、その頃より知り合ったともいわれる。
 このような軍への協力は、島田知事にとって当たり前のことであり、むしろ県民の生活を思ってのことであったろう。この時代、県民の生活を思い、職務に精励することは、すなわち軍に協力することであった。軍に協力し戦争遂行のために努力することは、それは職務に励むことであり、結果として県民のためになることと考えられていた。
 島田知事や荒井退造県警察部長は、現在でも沖縄で立派な人物と考えられている。それを否定する気はまったくない。事実、そうであったのだろう。考えるべきことは、この時代、高潔で立派な人物は、だからこそ軍に協力するなど戦争遂行の一端を主体的に担ったということである。例えば島田知事は長年内務官僚として警察畑を進み、沖縄着任以前にはいわゆる特高警察の幹部も務めていたともいわれている。荒井警察部長も島田知事の右腕として沖縄で「皇土保持に挺身することを光栄と思わねばならない」と住民に強調し、住民の戦線離脱を戒めてもいた。一人の人物の内面に潜む、あるいは職務として帯びている様々な面相を統一的に理解し、その人物の戦争責任を考えていかねばならない。

差し迫っていた第32軍による戒厳令

 なお、この日、第32軍は沖縄への戒厳令を布告するかどうか検討をしている。この日の第32軍参謀部日誌には次のようにある。

一月三十一日 晴天
   会同
一、一〇、〇〇軍司令官、参謀長、幕僚各部長出席「戒厳ニ関スル」会同ヲ実施ス

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 県と軍の対立状態のなかで、軍は戒厳令を布告し、あらゆる行政権を軍司令官が掌握する軍政を敷こうとしていたのである。しかし泉知事にかわり軍との協調を目指す島田知事の着任により、戒厳令の布告は回避された。沖縄をめぐる情勢がいかにひっ迫した状況であったか想像できるとともに、軍と地方行政の対立にあっては、軍は戒厳令まで敷いて行政権を掌握しようとするものなのだということはよく覚えておきたい。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県議会史』第12巻 資料編9 新聞集成Ⅱ
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)
・田村洋三『沖縄の島守─内務官僚かく戦えり』中央公論新社
・川満彰「戦争責任と向き合う(上)牛島満中将と島田叡知事」(沖縄タイムス2021年6月22日)

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島田知事と島田知事の着任を報じる沖縄新報の記事:QAB NEWS Headline 2010.2.1